世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著、かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

2012年10月

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つい先日、あるイベントでパレスチナを代表する詩人マハムード・ダルウィーシュの詩の朗読をした。詩を人前で読むなんて初めてだったし、ダルウィーシュのことはもちろん知ってはいたけれど、取り立てて自分から進んでこのイベントに参加したわけではなかった。でも、会場で彼の詩を読むうちに、不思議なくらい彼の世界に惹きこまれていった。彼がどんな思いでこの言葉を絞り出したのか、想像が膨らんでいった。

そして、家に帰って、慌ててガッサーン・カナファーニーの小説「太陽の男たち・ハイファに戻って」を本棚から引っ張り出して再読した。カナファーニーはパレスチナを代表する作家で、1948年にイスラエルとなった故郷を追われて難民となった。成長した彼は、新聞社で主幹などを務め、PFLPのスポークスマンとなり、作家として作品を発表していった。そして、幼い姪とともにイスラエル情報部に爆殺される。イスラエルが恐れたのは、彼が紡ぎ出す言葉であり、物語だったと言われている。

「太陽の男たち」は難民となってヨルダンに逃れた男たちが、避難先で生きているのか死んでいるのかも分からないような空虚な生活を送るなかで、家族に服を買ってやりたい、パンを食べさせてやりたい…と、イラクを通ってクウェートに出稼ぎに行く道中の話。身分証明書もパスポートも許可証も持たない彼らは、空っぽの給水タンクに隠れて灼熱の砂漠の国境を越えようとする。彼らを運ぶ運転手が、検問所で警備兵たちにからまれる。ジリジリと時間だけが過ぎていく。ようやく通ることを許された運転手がタンクの蓋を開けると、男たちは灼熱のタンクのなかで命果てていた。「どうしてタンクを叩かなかったんだ、どうして声を上げなかったんだ!」と運転手は驚愕する。

「ハイファに戻って」も痛烈な物語。ユダヤ軍がハイファに攻め込んできたとき、あるパレスチナ人夫妻は、戦火を逃れる際に自宅に生まれたばかりの赤ん坊を残してきてしまう。二十年後、皮肉なことにパレスチナ全土がイスラエルの占領下に置かれて初めて、夫妻はハイファを訪れることが許された。ハイファの自宅に戻ってみると、確かにその家はあり、そこに暮らすユダヤ人夫妻のもとに息子がいた。その青年こそが、ユダヤ人夫妻のもとでユダヤ人として育てられたパレスチナ人夫妻の息子だった。青年は、自分の出自に衝撃を受けながらも「親は自分を育ててくれた父母しかいない。あなたがたはこの二十年間、おめおめと泣いていただけじゃないか?あなたがたはどんなことがあっても家も子どもも手放すべきじゃなかった」と告げる。彼は、イスラエル国防軍の兵士としてパレスチナ人と戦う任務についている。ちょうど彼の弟は「故郷を取り戻すためパレスチナ義勇軍に入る」と両親に告げたばかり。パレスチナ人夫妻は、永遠に息子を失ったことを悟りながら「祖国とは、このようなことの一切が起こらない場所のこと」とつぶやく。

改めてこれらの物語を読んだとき、六十数年前のあの日々に故郷を追われて難民となったひと達の苦しみ、悲しみ、喪失をどれほど自分は分かっていたのだろうか?と自問した。この物語を読んだのは初めてではないし、難民キャンプでいくつもの話を聞いてきたし、なんだか分かったつもりのようになってしまってはいなかったか?なにも分かっちゃいなかったんだ…と痛感させられた。難民になるって、ただ家や財産や土地を失うというだけじゃない。永遠に自分の手に戻ってこない大切なものや場所やひとと切り離されてしまうこと。

ジェニン難民キャンプのアワード家の「兄弟」に、どうしても聞けないでいることがある。カマールにとって、ムハンマドにとって、ジュジュにとって、サリームにとって、「故郷ってどこ?」という問い。彼らのおじいさんが後にせざるを得なかった見たことのない場所を、彼らは「故郷」として描けているのかな?そのことを子どもたちに語るべき父親が喋れず、母親は難民ではなく育ってきた「兄弟」にとって、じーちゃんの村ゼライーン…とっくにその名前は消され、イスラエルの地図にその名をみつけることもできないけれど…は、どれだけ具体的なイメージを伴った「故郷」なのだろう?

難民が発生して、六十数年が経つってそういうことだ。難民キャンプで生まれ育った三世や四世に、見知らぬ地を、一度も訪れたことのない土地を「故郷」として思い描けなんて難しい。きっと、この固定化こそがイスラエルの狙いだったのだろう。三世、四世はイスラエルとなった「故郷」に戻りたいなんて思わないだろう…と。

十数年前、まだ和平への希望が残されていた時期に、ある難民キャンプの代表が話してくれたことを思い出す。「和平が進むことはいいことだけど、私たち難民の帰還権は置き去りにされているように感じる。和平の代償として私たちが『故郷』をあきらめなきゃいけないなんてあんまりだ」と。

「祖国とは、このようなことの一切が起きない場所のこと…」と書いたカナファーニーの言葉の重みを、いま改めて思い知る。

写真は、買ったばかりのPCでユーチューブを観るカマールと、居間の掃除のあいだカマールのベッドに座らされている父親のアブーカマール。昔はこの部屋がマハとアブーカマールの寝室だった。奥にビニールがかけられたままの家具は、カマールが結婚して新居で使う家具。

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宮古には昔から手作りで食べられてきた「ひゅうず」というお菓子がある。それぞれの家庭に作り方があるそうで、小麦粉をお湯で練ってのばしてそのなかに黒糖や黒蜜とクルミを入れて巻いてお湯でゆでると出来上がり。初めて食べたのは去年の五月。「これうめーんだぞ」と市場で宮古に住む友人が教えてくれたのを買って食べた。

それから、ことあるごとにひゅうずを見つけては買って食べる。宮古でのお茶っこにひゅうずやすっとぎは欠かせない。どちらもこの地域でしか食べられないおやつ。

先日、いつもよくお邪魔している仮設住宅で「ひゅうずをみんなで作って食べるから遊びにおいで」と誘ってもらった。出かけてみると、もうすっかり出来上がっていて、前掛けと頭巾をまいた皆さんがお皿にひゅうずを並べているところだった。

「最近、すっかり寒くなってきたし、仮設住宅でこれといったイベントもなくなってきたし、そういうことでみんなが何となく家から出てこなくなってきたから…」と、このイベントを企画したKさん。「こうやってみんなで集まってお茶飲んでる時だけは嫌なことも忘れられるよなー」とポツリ。「ほんと、これだけが楽しみだ」とまたポツリ。

先が見えない、これからどうしたらいいのか分からない、お金もない、自分が数年後どこで暮らしているのかも分からない、せっかく仲良くなった人たちとまた切り離されるんじゃないか、生活はどうするのか…この一年半、すっと皆さんが心に抱えていらっしゃる悩みは、なにひとつ解決してない。

たまたま蓄えのあった人、たまたま失くした家とは別に土地を持っていた人、たまたま再建するきっかけを見つけた人だけが、少しずつ立ち上がり始めているけれど、そうじゃない人たちは?

ワタシが宮古を離れた翌々日、総理大臣が宮古に視察に来たそうだ。復興予算が使われた先の視察と聞いた。それは大事かもしれない。でも、「復興予算が使われていない部分、必要としているのにまわってきていない部分」を、政治家たちは見て帰ったのだろうか?お茶を飲みながらため息をついている人たちの声なき声は届いているのだろうか?誰のための政治なんだろうか?

仮設住宅で病気になってしまわれたおじいちゃんをお訪ねしたとき「ここでだけは死にたくない」と、切実な声でおっしゃっていた。その言葉の意味が届いているだろうか?

ひゅうずは美味しかった。今まで食べたなかで一番…。でも、一緒に食べている皆さんの思いに触れると、とても苦い気持ちになる。

最近、宮古でいろんなひとから「あの日のこと」を聞くことが多くなってきた。一年半以上が経ち、あの津波に襲われた日のことをいろんなひとが語り始めてくれている。

逃げるのが間に合わなくて、首まで自宅で水に浸かりながら、走馬灯のように人生を思い返して、このまま家と一緒に太平洋に流されていくんだと観念したというNさん。浮かんできたのは、お世話になったひと達への感謝の念ばかりだったそうだ。

Nさんは、津波でたったひとりの家族を亡くされた。いつもお世話になっている宮古教会の牧師先生がいつか「あの孤独に、あの寂しさにどう寄り添えるか…」と、おっしゃっていた言葉が忘れられない。Nさんと牧師先生は、いつも教会の庭の花の前で一緒に笑っている。

Nさんが、ワタシが帰る日になるたびに悲しい目をしてうつむく姿を振り切って行かなくてはならないことが辛かった。本当に身を切られるような思いだった。自分の本当のおばあちゃんのように大切なひと。苦しみと悲しみと寂しさを抱えて笑顔の裏で瞳に悲しみをたたえている人を残して去ることは、耐えがたい思いだった。Nさんを含む、宮古で辛い思いを抱えていらっしゃる方々に、何ができなくても、少なくともワタシはいつも宮古を思い、あなたを思っているよ…と分かってほしいがために、こんなに宮古に足を向けているのかもしれない。忘れてないよ、いつも飛んでいきたいんだよと、伝えるために。

前々回かな。ワタシが帰る前の日に、Nさんの友達のAさんが「明日ミカちゃんが帰るんだってね。寂しいね」と声をかけると「大丈夫。ミカさんはまた戻ってくるから」とNさんが笑っていたと、Aさんから聞かされた。涙が出るほど嬉しかった。ようやく、そのことを信じてもらえるようになったんだなと。

Nさんだけじゃない。TさんもYさんもKさんも、本当に大切な自分の「おばあちゃん」。とにかく通って、とにかく「困ってることはない?」と声をかけて、お茶っこ飲みながら話を聞くことしかできないけれど、それでいいんだと思っている。宮古のために、被災地のためになんて、そんな大きなことを言うつもりはない。出会って、大切なひとになった方々のために、笑い話を用意して、お茶菓子を用意して、亡くされた家族の思い出話に耳を傾け、そっと手を握っていければ、それでいい。

今日は写真はナシだ。まだ全然整理できてないから。宮古に帰りたいな。

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10月20日の夜、下北沢のカフェ、Stay Happyにお越しくださった多くの方が面識のない方でした。新たな出会いをいただいたことに、まずは感謝をしております。

その夜、トークと上映後、そのまま夜行バスで宮古へ。今日は朝、お世話になっている宮古教会の礼拝に出席した後、ナリコさんのお宅にお昼ご飯をお呼ばれに行って、そのあと写真展会場に顔を出した。

まずは、この写真展の開催に奔走してくださった宮古地区更生保護女性の会の皆様に心から感謝。写真展の設営からシフトを組んでの展示会場づめまで、多くのことをしてくださっている。そして、ワタシがいつもお世話になっている盛岡YMCA宮古ボランティアセンターのセンター長とディレクターのO
さん、Kさんも、広報、告知からシフトに入っての会場づめまで、本当にお忙しい中、このような個人的な活動にまでご協力いただき、本当にありがとうございます。

宮古に旅に来ていて、「ツイッターで開催を知りました」と会場に足をお運びくださった三人の方。いつも宮古でお世話になっているナリコさんやアヤコさんやマエカワのおじちゃん。本当に嬉しかったです。

芳名帳をみると、いくつもの見知った名前。皆さん、ありがとうございます。

宮古に足を運ぶようになって一年七か月。自分の地元や自分が暮らす町よりも、宮古の方が知人が多くなってきた。震災後、復興のために自分がなにがしかのお役にたてれば…と通い始めたはずなのに、気が付けば、自分が宮古の方々にお世話になってばかり。

でも、そこが被災地であっても紛争地であってもどこであっても、ひとの出会いってそういうことなんだ。つくづくそう思う一日。

皆さん、本当にありがとうございます。

明日は、会場のりあす亭で14時から15時までスライドトークをおこないます。
お気軽に足をお運びください。

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震災以来ずっとボランティアとして足を運び、温かく迎え入れられ続けてきた「第二の故郷」宮古で、ただいま写真展を開催しております。

日時:10月19日~23日 夕方17時まで。※27日までに会期延長となりました!!!
場所:末広町商店街りあす亭

なお、22日(月)の14時から15時には、展示写真などの背景を説明するスライドトークをおこないます。

どちらも入場無料。

この写真展の開催のためにご尽力いただいた宮古の皆様に、心からお礼を申し上げます。

お気軽にお越しください。

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