ビリン村のパパ、ワタシがパレスチナで最も、もしかすると心の底から絶対的に…というレベルでは唯一,信頼を寄せる男性。そんなパパと重ねてきた年月は拙著『パレスチナ・そこにある日常』でも『それでもパレスチナに木を植える』でも綴った。
2012年に再会したときまでは、パパもまだ畑仕事に出かけたり、放牧に出かけたりしていた。先祖から引き継いできた土地を五人の息子たちにそれぞれ分け与え、長男の結婚式の際に多額の資金を用意する必要があり、パパはそれまで飼育していた家畜を売り払った。耕す畑も、息子たちのそれぞれの家の建設用地としてつぶした。
もともと口数も少なく、みんなと大笑いしながら戯れるようなひとでもない。みんなの輪のなかにいても、ひとり黙って煙草をふかすのがパパの常だった。だからパパはカバンにパンとお茶を詰めて、ひとりでラジオを聴きながら放牧に出かけることや、農作業に出かけることは好きだった。お金になる仕事ではないが、それでも、それはパパの大切な仕事だった。
耕す畑を失い、放牧に連れていく家畜を失い、パパにはなにもすることがなくなった。一日中、玄関先に座ってただ煙草をふかしているだけのことが多くなった。
そんなパパの姿を見かねて、一度だけ「ねえ、パパ、ワタシが山羊を何匹か買って、パパに預けたら代わりに育ててくれる?」とたずねたことがあった。ワタシは久しぶりに会ったパパの老け込みぶりに焦りを感じていた。でも、パパから教えられたヤギ数頭分のの値段は、当時のワタシの持ち金を軽く超えていた。そのことに気づいたパパは、きっとワタシに気を遣ったのだろう。「ミカ、もういいんだ。体調もあまりよくないし、仕事に行くのも疲れたからもういいんだ。あとはのんびりさせてもらうよ」と微笑んだ。その微笑み、その言葉を表面的に言葉通りに受け取るというミスを犯したワタシは、打つべき手をその場で打たなかった。
次の年、パパの体調は悪化していた。糖尿病の悪化で片目の視力を失い、もう一方の目もほとんど見えていないとのことだった。パパはすっかりふさぎ込み、ますます玄関先にただ座って煙草をふかすばかりになった。その姿は一見その前年と変わっていないように見えたが、大きく異なっていたのは、パパのその疲れ切った表情だった。「なにもすることがない。一日が長くて仕方がない」とパパはつぶやいた。
「することがないと、動かないから、ますます体調が悪化したのだろう。悪循環だった」と周囲のひとはワタシに話した。無理をしてでも、たった一頭か二頭でも、パパにヤギを買って預ければよかったと悔いた。悔やんでも悔やみきれなかった。結果は同じだったかもしれないが、ベストを尽くさなかったことが悔やんでも悔やみきれなかった。
そして前回の悔いだらけのパパとの再会から、さらに三年がたった。三年ぶりにビリンの「実家」を訪ねると、階段を昇って行った正面のソファ、いつもの場所にパパは座っていた。でも、階段を上りきったワタシの姿を正面にしてもパパの表情は動かなかった。「ああ、なにも見えていないんだ…」と、その瞬間に悟った。きっとパパは「誰が階段を上ってきたんだろうといぶかしがっているだろう」と瞬時に察した。「パパ、お久しぶりです。帰ってきたよ」とパパに近づいてその右手を握った。ビックリするほどヒンヤリした手だった。血が巡っていないのだろう。パパは「ああ、ミカか。帰ってきたんだな。おかえり」と淡々とワタシに告げた。
パパはこの三年で完全に視力を失っていた。どこにも一人では行くこともできず、お茶を淹れるのも、コーヒーを淹れるのも、自力ではできなくなっていた。日中は家に残っている二人の息子もいない。仕事だったり、同じく糖尿病で人工透析を受けているママの病院の付き添いだったり。近所に暮らす長男、次男、三男のそれぞれの嫁がたまたま訪ねてくるか、気を遣って訪ねてくるかでもしない限り、ご飯どころかお茶の一杯を口にすることも難しい。三年前、「パパのいまの人生は忍耐の試験のようなものだ」と感じたが、その困難はそのころの比ではなくなっていた。もはや、すべてが他者の都合次第でしか進まない日常。「考えても仕方がないことなのに、時間がありすぎるから、考えてしまうばかり」であることを、パパは近いひとに漏らしていた。
ナーブルスに行った日、パパの大好きなコーヒーと、糖尿病なので食べられるかどうかはわからない名物のクナーファをお土産に買っていった。パパは「せっかくミカが買ってきてくれたからひとつだけ」とクナーファを食べたいといった。
毎日があっという間に過ぎ、とうとうビリンを離れる日が来た。パパに別れの挨拶をする。できるだけ感傷的にならないよう、軽く別れを告げる。「また来年あたり帰ってくるね」と。
パパは「遅くなるなよ。さもないと、もうこれが今生でのお別れになってしまうからな。ひょっとするともう最後のお別れかもしれないな」と淡々とした口調でワタシに告げた。いつも毎回そんな言葉を漏らしながら泣くママを、パパはいつも声も出さずに笑ってみつめていたのに。パパの口からその言葉を聞くのは、重すぎた。ワタシは思わず泣いてしまいそうになった。
人生は一期一会。遠いパレスチナでたまたま出会ったひとたちと、こんな風にともに年月を、時間を重ねてこられたことにこそ感謝すべきなのだろう。別れ、またはその可能性を嘆くよりも、そのときそのときを大切にするだけのことなのだろう。そうアタマではわかっていても、パパの言葉は胸が張り裂けそうだった。
パパは、きっと、いまの日常がしんどいのだろうな。そんなパパのことを思うと、自分のエゴで「なにがなんでも、どんな状態でも、一日でも長く生きてほしい」とはとても言えない。
キリがなくなりそうだったので、もう一度「また帰ってくるね」と軽く言い残して玄関の扉を閉めた。階段を下りて夜道を歩きながら、涙がこぼれた。
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今後の報告会等の予定をお知らせします。
★3月31日(土)
国立市公民館「図書室の集い」
14時から16時半
参加費無料
http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/kouminkan/kouminkan3/1509178221759.html
★4月1日(日)
「パレスチナ連帯集会」
文京シビックホール地下1階学習室 18時半から21時
・18時35分~19時25分 『This Is Palestine』(2017年アイルランド、日本語字幕付き)上映
・19時40分~20時20分 現地報告(高橋)
資料代500円
主催JAPAC(日本・パレスチナプロジェクトセンター)
そのほか、順次決まり次第お知らせします。
いくつかの報告会でパレスチナの女性たちが製作した刺繍クラフトを販売いたします。
報告会会場にお越しになれない遠方の方のためにも、なんとか時間をみつけてブログでご紹介できればいいなと考えております。
2012年に再会したときまでは、パパもまだ畑仕事に出かけたり、放牧に出かけたりしていた。先祖から引き継いできた土地を五人の息子たちにそれぞれ分け与え、長男の結婚式の際に多額の資金を用意する必要があり、パパはそれまで飼育していた家畜を売り払った。耕す畑も、息子たちのそれぞれの家の建設用地としてつぶした。
もともと口数も少なく、みんなと大笑いしながら戯れるようなひとでもない。みんなの輪のなかにいても、ひとり黙って煙草をふかすのがパパの常だった。だからパパはカバンにパンとお茶を詰めて、ひとりでラジオを聴きながら放牧に出かけることや、農作業に出かけることは好きだった。お金になる仕事ではないが、それでも、それはパパの大切な仕事だった。
耕す畑を失い、放牧に連れていく家畜を失い、パパにはなにもすることがなくなった。一日中、玄関先に座ってただ煙草をふかしているだけのことが多くなった。
そんなパパの姿を見かねて、一度だけ「ねえ、パパ、ワタシが山羊を何匹か買って、パパに預けたら代わりに育ててくれる?」とたずねたことがあった。ワタシは久しぶりに会ったパパの老け込みぶりに焦りを感じていた。でも、パパから教えられたヤギ数頭分のの値段は、当時のワタシの持ち金を軽く超えていた。そのことに気づいたパパは、きっとワタシに気を遣ったのだろう。「ミカ、もういいんだ。体調もあまりよくないし、仕事に行くのも疲れたからもういいんだ。あとはのんびりさせてもらうよ」と微笑んだ。その微笑み、その言葉を表面的に言葉通りに受け取るというミスを犯したワタシは、打つべき手をその場で打たなかった。
次の年、パパの体調は悪化していた。糖尿病の悪化で片目の視力を失い、もう一方の目もほとんど見えていないとのことだった。パパはすっかりふさぎ込み、ますます玄関先にただ座って煙草をふかすばかりになった。その姿は一見その前年と変わっていないように見えたが、大きく異なっていたのは、パパのその疲れ切った表情だった。「なにもすることがない。一日が長くて仕方がない」とパパはつぶやいた。
「することがないと、動かないから、ますます体調が悪化したのだろう。悪循環だった」と周囲のひとはワタシに話した。無理をしてでも、たった一頭か二頭でも、パパにヤギを買って預ければよかったと悔いた。悔やんでも悔やみきれなかった。結果は同じだったかもしれないが、ベストを尽くさなかったことが悔やんでも悔やみきれなかった。
そして前回の悔いだらけのパパとの再会から、さらに三年がたった。三年ぶりにビリンの「実家」を訪ねると、階段を昇って行った正面のソファ、いつもの場所にパパは座っていた。でも、階段を上りきったワタシの姿を正面にしてもパパの表情は動かなかった。「ああ、なにも見えていないんだ…」と、その瞬間に悟った。きっとパパは「誰が階段を上ってきたんだろうといぶかしがっているだろう」と瞬時に察した。「パパ、お久しぶりです。帰ってきたよ」とパパに近づいてその右手を握った。ビックリするほどヒンヤリした手だった。血が巡っていないのだろう。パパは「ああ、ミカか。帰ってきたんだな。おかえり」と淡々とワタシに告げた。
パパはこの三年で完全に視力を失っていた。どこにも一人では行くこともできず、お茶を淹れるのも、コーヒーを淹れるのも、自力ではできなくなっていた。日中は家に残っている二人の息子もいない。仕事だったり、同じく糖尿病で人工透析を受けているママの病院の付き添いだったり。近所に暮らす長男、次男、三男のそれぞれの嫁がたまたま訪ねてくるか、気を遣って訪ねてくるかでもしない限り、ご飯どころかお茶の一杯を口にすることも難しい。三年前、「パパのいまの人生は忍耐の試験のようなものだ」と感じたが、その困難はそのころの比ではなくなっていた。もはや、すべてが他者の都合次第でしか進まない日常。「考えても仕方がないことなのに、時間がありすぎるから、考えてしまうばかり」であることを、パパは近いひとに漏らしていた。
ナーブルスに行った日、パパの大好きなコーヒーと、糖尿病なので食べられるかどうかはわからない名物のクナーファをお土産に買っていった。パパは「せっかくミカが買ってきてくれたからひとつだけ」とクナーファを食べたいといった。
毎日があっという間に過ぎ、とうとうビリンを離れる日が来た。パパに別れの挨拶をする。できるだけ感傷的にならないよう、軽く別れを告げる。「また来年あたり帰ってくるね」と。
パパは「遅くなるなよ。さもないと、もうこれが今生でのお別れになってしまうからな。ひょっとするともう最後のお別れかもしれないな」と淡々とした口調でワタシに告げた。いつも毎回そんな言葉を漏らしながら泣くママを、パパはいつも声も出さずに笑ってみつめていたのに。パパの口からその言葉を聞くのは、重すぎた。ワタシは思わず泣いてしまいそうになった。
人生は一期一会。遠いパレスチナでたまたま出会ったひとたちと、こんな風にともに年月を、時間を重ねてこられたことにこそ感謝すべきなのだろう。別れ、またはその可能性を嘆くよりも、そのときそのときを大切にするだけのことなのだろう。そうアタマではわかっていても、パパの言葉は胸が張り裂けそうだった。
パパは、きっと、いまの日常がしんどいのだろうな。そんなパパのことを思うと、自分のエゴで「なにがなんでも、どんな状態でも、一日でも長く生きてほしい」とはとても言えない。
キリがなくなりそうだったので、もう一度「また帰ってくるね」と軽く言い残して玄関の扉を閉めた。階段を下りて夜道を歩きながら、涙がこぼれた。
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今後の報告会等の予定をお知らせします。
★3月31日(土)
国立市公民館「図書室の集い」
14時から16時半
参加費無料
http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/kouminkan/kouminkan3/1509178221759.html
★4月1日(日)
「パレスチナ連帯集会」
文京シビックホール地下1階学習室 18時半から21時
・18時35分~19時25分 『This Is Palestine』(2017年アイルランド、日本語字幕付き)上映
・19時40分~20時20分 現地報告(高橋)
資料代500円
主催JAPAC(日本・パレスチナプロジェクトセンター)
そのほか、順次決まり次第お知らせします。
いくつかの報告会でパレスチナの女性たちが製作した刺繍クラフトを販売いたします。
報告会会場にお越しになれない遠方の方のためにも、なんとか時間をみつけてブログでご紹介できればいいなと考えております。