世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著、かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

2021年08月

「どうせ欧米諸国の人びとやその関係者の退避が済んだら、アフガニスタンはまた忘却の彼方に置き去りにされてしまうんだと思う」というアフガニスタンのひとの言葉が目に入った。きっと、そうなのだろうと思う。だって、いままでずっとそうだった。圧倒的大多数のひとは、すぐまた次の話題に目を向ける。まるで、なにも「見なかった」かのように。そう、きっと私も。

「どうか無事を祈っていて」というメッセージが届く。「助けて」というメッセージを前に何ひとつできることもない私は消えてしまいたくなる。気休めの言葉すら言うことができない。

私は今日も、なんの意味もなくアフガニスタンで撮りためた写真を並べる。ひとを撮ることが好きなので、ひとの表情が写っていない写真は本当に少ない。だからいま紹介できる写真も日増しに枯渇している。「個人が特定されるような、顔がはっきり写っていない写真で、なおかつ人びとのいとなみが伝わるもの」と限定すると、けっこう難しいんだなと気づく。そして、普段私はいかにひとの顔ばかり撮っているのかということに気づかされる。

最高の笑顔が並ぶ。泣きたくなるくらいにステキな笑顔。でも、それらを紹介するには、いまは、あまりにも「先が読めな」すぎる。いつか、また、笑顔の写真を何の不安も憂いもなく並べられる日が来ると信じたい。

今日もまた、山の暮らしを中心に。みんなに会いたい。みんなが恋しい。どうか無事でありますように。祈りは届くのだろうか。


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連日、家畜の写真ばかりだけれど、山の暮らしは人間と家畜が混然一体となって暮らしている。家畜はほぼ自給自足の村のいとなみを支える大切な命。子ヤギのとぼけた表情が愛しい。


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牛を追って山を登る。

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明け方、これから放牧へ。各戸のヤギが集められる。昔は集落で順番に放牧当番を担っていたが、この集落では近年プロの牧童に賃仕事として頼んでいる。

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山に登っていくヤギの集団。

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小さな子どもは子牛を追う。ヤギほど広範囲に草を食べ歩かない。

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子牛の瞳にノックアウトされる。かわいい。

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山の上の朝ごはん。搾りたてのミルクで作った甘いプディングのようなものや自家製のバターやナン、フライドポテトが並ぶ。このギザギザカットが近年の山での流行。

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庭先ではコルート(だったと思う。発酵乳を乾燥させて固めた保存食)が作られていた。

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村人(実は私たちが「支援」する学校の卒業生)が急流に渡された手作りの橋を渡る。

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…と思ったら、崖をあっという間に上がってきた。村人たちの足腰の強さは本当にすごい。体幹もバランス感覚も研ぎ澄まされている。

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桑の実(トゥート)はまだ少し早かった。6月ごろ実がなる。日本の花見のように、一家で集って木の下にシートを広げたりしてトゥート狩りをするのが風物詩。

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残念ながら、まだ食べごろではなかったトゥート。

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山の貴重な栄養食である山菜。皮をむいて生で食べる。ちょっと酸っぱい。

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山の上の昼食。ゆで卵は自宅で飼っている鶏からの恵み。だいたいどこの家でも鶏を飼っている。キュウリやコリアンダーなどは山では採れない(というか栽培していない)ので、下の町から買ってくる。この家があるあたりは、下の町から歩いて片道三時間。下りはもう少し早い。

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これは下の町に近い集落。自慢のガスオーブン。「ナンを焼くのも簡単になった」と。でもときどき、炭火でかまど(タンドール)を使ってナンを焼くこともある。

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焼き立てのナンは、それだけで最高のご馳走。645-20210825-182212
お湯を沸かす器具。お風呂に入る(というか湯浴びする)ときなど、これで沸かしたお湯をバケツに入れてもらって湯浴びする。

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泉の水を自宅に引いて、蛇口をひねれば水が出る水道ができたのが数年前。かなり感動した変化だった。それ以前は、家の近くを流れる泉の水を岩で溝をつくって引いた場所に水を汲みに行ってから、すべてをまかなっていた。泉の水を家の近くまで引いたことだって十分感動的な変化だったが。さらなる進化。肉を洗っているところ。

みんなのいとなみが、守られますように。

銀行も閉まり、両替所も閉まり、預金を引き出すことも叶わず、海外からの送金も停止され、警察等の公務員だった人びとは失業し、物資は不足し(そうでなくともかねてから旱魃や不作がささやかれていた)物価は跳ね上がり…というアフガニスタンの一般市民の苦境をロイターが報じていたが、これは私たちが受け取った現地からのメールのなかでも触れられていた。「とにかく物価が高騰している」「手持ちの現金がない」など。先行きの不安だけでなく、いま目の前にある苦境も人びとの心に陰を落としている。

このような苦境に立たされたとき、とりあえずいまの危機を脱するために、人びとが何を望み、何を受け入れていくのかということは、この遠い安全な場所にいる自分などには決して分からないことだろうと思う。背に腹は変えられない。権利や尊厳が誰にとっても大切であることは言うまでもないが、その前に空腹が満たされなければ、どうしようもない。人びとはそんな不安と向き合わされてもいる。その不安を、私はどれほど「理解」しているのだろうか。

連日の繰り返しになるが、毎日、暇さえあれば、隙間時間をみつけてアフガニスタンからの報にかじりついている。それらは、それを受け取った自分の心の揺れとともに、その都度ツイッターで吐き出している。ここでは、今日も何になるのかも分からないまま、アフガニスタンで撮りためた写真(人びとの顔も見えず、大好きな彼らの笑顔の写真はあえて除外したものを)並べる。ほんのわずかにでも、ニュースの向こう側にいる、決して「数」や「集合体」などではない名前も顔も個性もある人びとのことを感じてもらえたらいいなと思うから。確かに彼らは存在するのだということを。世界が彼らの声を拾い上げようとも、あげまいとも。その声を聴こうとしようとも、しまいとも。ずっと彼らのいとなみは続いているのだということを、感じてもらえればいいなと思う。

今日はすべて2018年の写真。いまだから言えるが、カーブルに飛ぼうとした日に空港周辺で戦闘が起こり、滑走路が閉鎖され、飛び立つ直前のはずの機中で理由もわからないまま何時間も待たされたのだった。そのときは最初「テクニカルな問題が発生」と説明され、やがて同乗の機中の人たちがアフガニスタンで待っている家族や友人と連絡を取る声があちこちから聞こえ始めてきて、彼らの通話から「ジャング(戦闘)」という単語が聞こえてきて、ああ…そういうことか、と理由を悟ったことを思い出す。そんな旅のスタートだった。フライトは中止になり、翌日臨時便として飛ばされ、無事カーブルに到着したのだった。

今日は、すべて私たちがお世話になっている山の村の写真。


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山の頂には雪が残る。


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この日は、この山の中腹に建つ村人の家にお邪魔。


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手作りの橋が渡してある。


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近づいてみると、家の周りは開墾された畑があり、この一家もうまく狭い土地を利用して暮らしている。


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その帰り道、雨のなか少女が牛を追っていた。草を食べさせている。


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下の町の家にお邪魔する。地下階が倉庫と家畜小屋、一階が二部屋の居住スペース。二階に台所というか炊事場。水は下から容器で運ぶ。お手洗いは玄関を出て離れに(私の立ち位置の背後がお手洗い)。子牛が母牛からミルクをもらえるのを待っている。まず、その前に人間がおすそ分けをいただく。


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搾乳の前に、母牛にご飯をあげる。


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子牛にミルクを飲ませる前に、搾乳して人間がいただく。どこの家でも女性(一家のお母さんか女の子)が搾乳していることが多かった。私が見た範囲では。

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二階の台所で炊事中。この次のカットが満面の笑みなので、こんなご時世だし、そちらを紹介できないことを心から残念に思います。

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同じく、炊事中。圧力鍋のふたを開けたところ。この家も下の町なのでガスが手に入れやすく、ガス台を使っているので圧力鍋で料理の時間が短縮できる。「焚火での煮炊きは本当に時間がかかるので、煮込み料理などは半日がかりで、お客さんが来る日は大変だった」と聞いた。

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また、これも山の上。情けない顔した牛があまりにかわいくて。牛にも個性あるんだなあと思う。

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川に村人たちの手で作られた橋が渡してある。人間も家畜もこの橋を通って対岸と行き来する。

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ある日のご馳走。豆の煮込み、自家製ヨーグルト、自家製ナン、生野菜、ポテト、肉など。しつこいけれど、これは来客がある日の特別なご飯。普段の昼食なら、ヨーグルト、ナン、ご飯、豆煮込みという感じ。

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ヤギが家の前で仲良く並んで座っていた。

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ヤギさんもお見送り。

本当は、これらの写真のあいだに、膨大な、子どもたちや村人たちの笑顔の写真があるのだが、それらをいまご紹介することが憚られることが、私にとっても残念でなりません。



気がつけば、アフガニスタンのことばかりを考えている。なにかをしていても、なかなか集中できない日々を過ごしている。みんなはどうしているのかな、不安な日々を過ごしているのかな、と。

日々の揺れる思いは、その都度できるだけツイッターで吐き出すことにしているので、ブログでは極力それを繰り返さないでおこうと思う。(ご関心があれば@mikairvmestのツイートをご参照ください)

ツイッターにしても、ブログにしても、当たり前のことだが、不用意には書けない、公開できないことがたくさんある。このような、誰がいつどこでどんな目に遭わされるか予測もつかない状況ではなおさらだ。ひとの命と人生がかかっている。「伝える」ことよりも大切なことが、私にはある。「伝える人間」の末端に連なるものとして、あまりに覚悟の足りない、へタレた姿勢だと自分でも思うが、自分の覚悟なんてこの程度のものだ。だれかを取り返しのつかない危険にさらしてまで「伝えたいこと」は、私にはない。私はその程度の人間だ。この弱さも覚悟のなさも迷いも、すべてありのままの自分なのだから仕方がない。拙著のなかで、パレスチナの人びとのことを記述する際に、「ルポ」でありながら幾人かは仮名で登場するのはそのためだ。

いっそのこと、もうアフガニスタンに関する個人的な発信は封印した方がいいのではないか?とも思うが、たとえ、それがわずかな一面、側面に過ぎないとしても、わずかにアフガニスタンの表層をなぞってきた自分には、現地の人びとを多少なりとも知るものとして、課せられた制限のなかでも「伝えられる」ことがあるのかもしれないと思うし、そうすべき責任のようなものもあるのだろうと思う。また、そうしたいとも望んでいる。ニュースなどでは、あまりにも現地で生きる人びとの姿が伝わることが少ないから。現地の人びとのことが「いま、同じ時代を、共に生きている人びと」だと実感できなければ、遅かれ早かれまたアフガニスタンは忘却の彼方に追いやられる。人びとの目が届かなくなったときに、何が起こるかは、歴史が繰り返してきたとおりだ。

そんな私は、日々の揺れる心を綴る際にも、煮え切らず、迷ってばかりいる。断言できないことが多い。ときに相反することの、どちらにも「理」を感じることがあるから。この矛盾を突き詰めて考えることだけは、自分に課したいと思う。自分が「見ないできた」「見ようともしなかった」「都合の悪い」ことを、思考停止で全否定することだけはやめようと思う。とにかく、自分のアタマで考える。

せめて、個人の特定につながるような人びとの顔などをハッキリ写していない写真で、人びとの生きる姿、息遣いを伝えられるような写真を集めて、それらを伝えられないかな?と思う。どこまで続けられるか、続くのかもわからないが、始めてみようと思う。年代もジャンルもバラバラ。きまぐれに目についたものを並べるだけ。

人びとは、今日もそこで生きている。世界の注目があろうとも、なかろうとも、変わらずに。

連日の繰り返しになってしまうが、私が望むのは、アフガニスタンの人びとが、命か尊厳かなどという究極の選択を迫られることなく、どちらも守られながら、日々のいとなみを続けていける社会であってほしいということに尽きる。

命か尊厳か、パレスチナでもさんざん悩み考えさせられてきた。占領のなかで生きるには、ときに、そのような非情な選択を迫られることもあり、実際に何人かの友人知人が、尊厳を選び取ることで命を差し出すことになった。

未熟な私には、答えなんてなかなかみつけられないけれど、考えることだけはやめない。

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バーミヤンの大仏跡。ここにプロジェクトマッピングで大仏像を投影することも計画されていたが、ターリバーンの統治下では、それは許されないだろう。モフセン・マフマルバフの『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(現代企画室)は、いま再度読まれるべき一冊だと思う。ターリバーンによって引き起こされる問題「だけ」が、アフガニスタンにある問題なのではないことは、冷静に再確認したい。大仏跡の周辺では、人びとが牛に犂をひかせて畑を耕していた。そののんびりとした光景も忘れられない。人びとが安心して田畑を耕せるのは、平和があればこそということは、言うまでもない。

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ある日の昼食に出してもらった豆の煮込みとご飯。よほど豊かな家でもない限り、食卓に肉が出てくることはそんなに多くない。金曜日の休日や、来客がある日などは肉料理が奮発される。

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人口が増えて、山の方にもたくさんの住宅が建てられているカーブル郊外。

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一方、こちらは、私たちが長年お世話になっている山あいの村の住宅。宅地に適した平地がほとんどない渓谷なので、斜面にへばりつくように建てられている。一階が家畜小屋、二階以上が住居という形態で制限ある土地を有効利用。

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峻険な山々の谷間に川が流れ、人びとが暮らす集落がある。写真は村の学校。

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雪深い山間部なので、冬のあいだは雪に閉ざされる。この写真は雪解けの進む春先。すべらないように慎重に高価な登山靴を履いて進む私の横を、子どもたちは裸足にゴムサンダルで駆けてゆく。「人間力」の土台が違うといつも感心することばかりです。

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夏、採れたての杏(だったと思う)を川の水で洗いふるまってくれる村人。

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山道を歩いて学校から帰る。近い子で片道15分、遠い子で1時間の距離を歩いて通学する。

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春はアーモンドの花などが咲き乱れて本当にキレイ。

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下の町のご家庭の台所。下の集落は町に近いからガスボンベを買えるし、ガス台を使える。山の上の集落は焚火での煮炊きが多い。これはアフガニスタンの圧力鍋。

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春先に山で採れるキノコは最高のご馳走。ときおり、たまらなく食べたくなる。ヨーグルトとナン(パン)は自家製。

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これは来客’(私たち)をもてなすための大ご馳走。肉とジャガイモのトマト煮込み、ゆで卵やフライドポテト、自家製ヨーグルト、ネギやコリアンダー、自家製ナン、ご飯が並ぶ。

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ある村人の家にお邪魔すると、ご高齢のお母さま(故人)にご飯を食べさせてあげる姿が。子どものころ祖父母とともに暮らした私には、なんだか懐かしくなる光景でした。

今日も明日も明後日も、こういういとなみが守られますように。

覚悟のない私には、そんなことしか言えないし、それだけを願っている。











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いまアフガニスタンで起きていることを、ここで語るつもりもない。

この日々のことは、連日連夜、そのつど揺れる心のままツイッターで綴っているので、ここでは繰り返さない。

激動のニュースのなかで、私が思い出すのは、長年にわたり、私たちがお世話になってきた山の村の人びとのこと。

初めて村を訪ねたときには、電気もなかった。いまでは、家庭によっては川の水力発電による電力を使いながら生活しているが、元々が現金収入もほとんどない自給自足の村。電気代を払うためには、現金収入が必要となる。現金収入は、家畜を下の町に売りに行くことで得たりする。家庭によっては、電球が灯る程度の電力しか使用していないことも少なくない。そんな村の話。

数年前に訪れたときには、この時点でもまだ携帯電話の電波も届いていなかったので、携帯電話を持っているひとも多くはない。下の町に行く用事があり、金銭的な余裕があるひとは持っていることもあるが。(これも現時点でどうか、ということは定かではない。2018年を最後に、私は現地を訪れていないから)そんな村の話。

私自身が村を初めて訪ねたのは、2007年のこと。岩だらけの、耕作に適していないゴツゴツした地形が印象的だった。石や泥レンガの家々は、山にへばりつくように建てられていた。家の一番奥の壁が山の斜面の大きな岩だった家もあった。平地がないので、畑を耕して作物をつくることは大変そうだった。人びとは、わずかな耕作地を懸命に耕して暮らしていた。

2007年、ある村人の家にお邪魔したとき、集落の寄り合いが開かれていた。各家庭がお金を出し合い、村を流れる川から水をひくための用水路をつくろうという話し合いだった。

子どもたちは、朝晩川に水汲みに行っていた。帰りは水がたくさん入った重いバケツを棒の両側に天秤のようにして担ぎ、山の斜面をのぼって家に帰らなければならない毎日の日課。寒い雪の日は、さぞつらい仕事だっただろう。冬には雪で閉ざされる村。

2010年、2011年、2013年…と通ううち、山の家々の近くには、村人たちの手によって用水路ができあがり、川沿いでは、何年にもわたって岩を取り除き、そこに土を入れ、平地をつくり、耕した耕作地ができあがっていることに気づいた。毎年の変化は、ほんのわずかなものだった。でも数年を経て、岩だらけの川沿いの土地が、すっかり畑になっていることに、月並みだが感動した。人びとのたゆまぬ努力、日々コツコツと続けるいとなみの、なんと尊いことかと、その畑を眺めながら感動した。集落のみんなで造成して耕す土地。実りをもたらしてくれる土地。目の前に広がる光景が、あまりに愛おしくて、私は現地に行くたびに、この場所からこの畑を眺める。村の人たちが畑仕事をする姿を眺める。

だからどうした、ということもない。でも、いま激動のニュースになって、いっとき、にわかに注目されている場所に生きるひとたちの、日々のたゆまぬ努力やいとなみが伝えられることは少ない。「ターリバーンがどうだ」「アフガニスタンはこうだ」大文字で語られるニュースのなかに、一部の地域の、一部の「注目される」人びとや「声をあげる」人びと以外の「声」や「息遣い」が伝わってくることは少ない。

「声なき」ひとの声を聞きたい。自分が生きる場所で、たんたんと、懸命に日々を生きている人びとの声が聞きたい。声を届ける手段を持たないひと、いや、もしかしたら声を届けたいなんて考えてもいないひとの声が聞きたい。

そんな人びともまた「アフガニスタン人」であることを、忘れたくない。

アフガニスタンのすべてのひとが、自分が大切にするものを守り、何ものにも脅かされず、そのいとなみを続けていくことができますように。

私に言えることは、そんなことくらいしかない。

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