わずかなスキマ時間をみつけて、サクラを撮る。不思議なもので、さあ、どこから撮ろうかな、どこを切り取ろうかななどと木を見上げていると、「ちょっと、私を撮りなさいよ」「こっちもこっちも」などという花々の声が聴こえてき始める(大丈夫か?オマエ…というご心配は、多分、無用)。その声に導かれるままにシャッターを押す。ほんの五分、十分のつもりがいつの間にか一時間経っていてあせる。
毎年サクラを撮りながら実感することがある。「わたしは本当に自分が撮りたいものさえ撮っていられれば、それだけで幸せなんだな」ということ。心が不思議なくらいに充たされる。なかなか他のモノゴトでは味わえない感覚だ。写真を撮ることが好きで好きでたまらないんだなと気づかされる。もちろん、一銭にもならないような、「仕事」とは関係なく、ただ自分が好きで撮っているときにだけ、ジワーッとその気持ちがあふれてくる。これが日々の糧を得る「仕事」のときにも感じられれば、私はもっと積極的に写真の「仕事」をできるのだろうにな。この高揚感やふんわりした撮影の興奮や好きで好きでたまらない気持ちは、スーフィダンスや神楽を撮っているときに一番感じることが多い。いや、毎回感じる。被写体とシンクロするような感覚。それが、近年、サクラで感じられるようになってきた。
でも家に帰って、PCに取りこんで大きなスクリーンで撮影した画像をみると、撮影のときの高揚感が吹っ飛ぶ。自分のヘタクソ加減にガッカリさせられる。手ぶれ、被写体ぶれ、露出の失敗(RAWで撮ればいいんだろうけど、写真の編集レタッチが好きじゃない)等々ガッカリの連続。なのにまた、性懲りもなく「サクラの声を聴きに」隙間時間さえあれば、重いカメラを担いで向かってしまう。
大好きなガウディが「神が創り出された自然の造形ほど美しいものはない」というようなことを言っていたと記憶するが、木々や花々や枝の造形を眺めていると、本当にそう思う。光も影も。美しいものを眺めて生きていられればいいのに…世界中のひとが。
世界が平和になりますように。
花々や身のまわりの美しいものを楽しむ日常を得られないひとたちのことを思う。
またジェニン難民キャンプで若者たちが殺された。。。
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