金曜日はいつも冷や冷やしながら一日が過ぎゆくのを待つ。
ビリンで誰かが犠牲になっていないか、デモは無事に終わったか。それに加えていまではエジプトの金曜日を恐怖にも近い思いでみつめる。
大切なものを失って初めてわかる…ってことがあるけど、失ってもいないけれど、ワタシは今回エジプトという国が決して後戻りできない一歩を踏み出してしまうのを眺めながら、エジプトをどんなに好きだったか、思い知らされた。
浮かんでくるのは、友達との出会いとか、一緒に過ごした日々とか、そういうとりとめのないことばかり。でも、そういうことが自分にとってどれほど大切だったか思い知る。
2008年にゆっくり久しぶりにエジプトを旅して以降、2009年、2010年、2011年、2012年と毎年エジプトには行っているのに、いつもそれはパレスチナの「ついで」で、友達ともゆっくりじっくり話さず、昔のようにただただ意味もなく街歩きをするということもなく、駆け足で数人の友達と会い、スーフィの撮影、タハリール広場の撮影だけ済ませて帰るような付き合い方だった。
昔からの友達の多くをないがしろにして、訪ねてみようともせず、それは、「エジプトは変わらない。いつ行っても同じようにみんながいて、同じように迎えてくれる。またいつでも会える」そんな風に、タカをくくってしまっていたのかもしれない。
変わらないものなんてない、いつでも会えるなんて幻想だ。パレスチナやアフガニスタンで、散々それを思い知らされているはずなのに、どうしてそのことに気付かなかったのか。
軍部の暫定政権を支持するずっと昔からの友達に「同じエジプト人を平気で殺す政権なんて狂ってる。いつか自分がそういう目に遭わされる」と吠えて、友達を怒らせてしまった。彼だって、分かっている。それでも、エジプトで生きている彼は、自分にとって、家族の生活にとって、いま一番マシと思えることを選んだに過ぎない。でも、言わずにはいられなかった。もう、元には戻れない。
昨日は、カイロの郊外のヘルワンの駅の横に、何両もの戦車が配備されていた。ヘルワンはワタシが一番最初にエジプトに行ったとき、三週間ほどを過ごした思い出の町。そこで出会った二人の青年、アムルとレダと仲良くならなかったら、エジプトをここまで好きにはならなかっただろうし、留学までして第二の故郷になんてならなかっただろうと思う。
アムルとレダとは、2000年を最後に会っていない。ワタシが旅先で一番最初にひとさまの家に居候したのは、このアムルの家だったけれど、ママも弟のアラアも元気なのかどうなのか。二人と疎遠になってしまったのは、アムルの婚約者に「あなたもあなたの家族もミカを大切に、優先しすぎる。もう仲良くしないで」と言われたことがきっかけだった。
アムルは当然彼女に怒った。「ミカはずーっとうちの家族も同然で、娘のいないママにとって娘同然の存在。それを君にとやかく言われる筋合いはない」と。でも、ワタシはいたたまれなくなった。自分が彼女の立場だったら、きっと嫌だろうなと。
それから、少しずつアムルの一家を訪ねることを控えてしまった。そして同じころ、レダがヘルワンを離れて紅海沿いの町に出稼ぎに行くことが決まった。
当時は携帯電話やメールもいまほど普及していなかった。アムルもレダも貧しかったから、そんなものとは縁もなかった。いつの間にか、連絡が途絶えてしまった。
不義理をしたなと思う。ヘルワンの駅から、アムルの家は歩くと30分以上かかるけれど、いまでもその道順を覚えている。いつか訪ねようと思いながら、今日までときが過ぎてしまっている。
ヘルワンの戦車の銃身の先にいるのはアムルやレダかもしれないと思うと、たまらなくなった。他の友達なら、問えば安否がわかるけれど、彼らの安否は、いまのワタシには知るすべもない。
自分の尊厳を守るために命を懸ける…そのこと自体はとても尊いことだし、そこまでしなければ成し遂げられないことも、変えられないこともたくさんある。
でも、それでもみんなに生きていてほしいと願うのは、自分のつまらないエゴなのだろうか…。
写真は、行きつけのジュース屋のおっちゃん。行けば「ああ、また来たのか、元気か」と声をかけてくれる、でも名前を聞いたことはない、自分にとってそんな存在のひとがたくさんいることにも気づかされた。どうか、みんな無事でいて。
ビリンで誰かが犠牲になっていないか、デモは無事に終わったか。それに加えていまではエジプトの金曜日を恐怖にも近い思いでみつめる。
大切なものを失って初めてわかる…ってことがあるけど、失ってもいないけれど、ワタシは今回エジプトという国が決して後戻りできない一歩を踏み出してしまうのを眺めながら、エジプトをどんなに好きだったか、思い知らされた。
浮かんでくるのは、友達との出会いとか、一緒に過ごした日々とか、そういうとりとめのないことばかり。でも、そういうことが自分にとってどれほど大切だったか思い知る。
2008年にゆっくり久しぶりにエジプトを旅して以降、2009年、2010年、2011年、2012年と毎年エジプトには行っているのに、いつもそれはパレスチナの「ついで」で、友達ともゆっくりじっくり話さず、昔のようにただただ意味もなく街歩きをするということもなく、駆け足で数人の友達と会い、スーフィの撮影、タハリール広場の撮影だけ済ませて帰るような付き合い方だった。
昔からの友達の多くをないがしろにして、訪ねてみようともせず、それは、「エジプトは変わらない。いつ行っても同じようにみんながいて、同じように迎えてくれる。またいつでも会える」そんな風に、タカをくくってしまっていたのかもしれない。
変わらないものなんてない、いつでも会えるなんて幻想だ。パレスチナやアフガニスタンで、散々それを思い知らされているはずなのに、どうしてそのことに気付かなかったのか。
軍部の暫定政権を支持するずっと昔からの友達に「同じエジプト人を平気で殺す政権なんて狂ってる。いつか自分がそういう目に遭わされる」と吠えて、友達を怒らせてしまった。彼だって、分かっている。それでも、エジプトで生きている彼は、自分にとって、家族の生活にとって、いま一番マシと思えることを選んだに過ぎない。でも、言わずにはいられなかった。もう、元には戻れない。
昨日は、カイロの郊外のヘルワンの駅の横に、何両もの戦車が配備されていた。ヘルワンはワタシが一番最初にエジプトに行ったとき、三週間ほどを過ごした思い出の町。そこで出会った二人の青年、アムルとレダと仲良くならなかったら、エジプトをここまで好きにはならなかっただろうし、留学までして第二の故郷になんてならなかっただろうと思う。
アムルとレダとは、2000年を最後に会っていない。ワタシが旅先で一番最初にひとさまの家に居候したのは、このアムルの家だったけれど、ママも弟のアラアも元気なのかどうなのか。二人と疎遠になってしまったのは、アムルの婚約者に「あなたもあなたの家族もミカを大切に、優先しすぎる。もう仲良くしないで」と言われたことがきっかけだった。
アムルは当然彼女に怒った。「ミカはずーっとうちの家族も同然で、娘のいないママにとって娘同然の存在。それを君にとやかく言われる筋合いはない」と。でも、ワタシはいたたまれなくなった。自分が彼女の立場だったら、きっと嫌だろうなと。
それから、少しずつアムルの一家を訪ねることを控えてしまった。そして同じころ、レダがヘルワンを離れて紅海沿いの町に出稼ぎに行くことが決まった。
当時は携帯電話やメールもいまほど普及していなかった。アムルもレダも貧しかったから、そんなものとは縁もなかった。いつの間にか、連絡が途絶えてしまった。
不義理をしたなと思う。ヘルワンの駅から、アムルの家は歩くと30分以上かかるけれど、いまでもその道順を覚えている。いつか訪ねようと思いながら、今日までときが過ぎてしまっている。
ヘルワンの戦車の銃身の先にいるのはアムルやレダかもしれないと思うと、たまらなくなった。他の友達なら、問えば安否がわかるけれど、彼らの安否は、いまのワタシには知るすべもない。
自分の尊厳を守るために命を懸ける…そのこと自体はとても尊いことだし、そこまでしなければ成し遂げられないことも、変えられないこともたくさんある。
でも、それでもみんなに生きていてほしいと願うのは、自分のつまらないエゴなのだろうか…。
写真は、行きつけのジュース屋のおっちゃん。行けば「ああ、また来たのか、元気か」と声をかけてくれる、でも名前を聞いたことはない、自分にとってそんな存在のひとがたくさんいることにも気づかされた。どうか、みんな無事でいて。