世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著、かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

カテゴリ: 原発はいらないよ

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「アンタ、動いてないと死んじゃう魚みたい」と言われました、最近。広島、宮古と続き、いよいよ明後日からは祝島。某地に一泊するため、一日早く今夜の夜行で旅立ちます。8月下旬からこの二週間ほどで五回目の夜行バス。疲れたなあとため息をつきながら、また夜行バス。

祝島は三年ぶり。三年前に訪れたときは、この地で仕事をみつけて(介護職員になれるなら需要はあると島で言われた)移住して島のことを記録したいと半ば本気で考えていたが、その後状況がそれを許さず、結局島へ移住することはできなかった。また訪ねたいと思いつつ、三年の月日が流れた。

瀬戸内の海を故郷に持つ者のひとりとして、この瀬戸内海をこれ以上汚してほしくないと強く思う。「便利な暮らし」を追い求めすぎた結果、失われてしまったものはあまりに多い。魚をとって、田を耕して、ビワを育てて、ヒジキをとって、そういう地(海は地とは言わないけれど)に根差した島の暮らしがいいなと思った。

この島の反対運動があったからこそ、ここに原発はつくられないできた。もう、原発はいらないよ。心の底からそう思う。

島の方々に再会するのが楽しみだ。久しぶりに色々なお話を聞かせてもらうことも楽しみだ。島の方々に、パレスチナのお話しをする時間もいただいていると聞く。闘いつづけるひとたちに、闘いつづけるひとたちの話を。

この三年間、待ち望んだ島の再訪。島に着いたら、深呼吸しよう。

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大間の「あさこはうす」を訪問して約二か月、「あさこはうす」を守る厚子さんと一緒に上関原発と闘う祝島に行ってきました。

岩国に着くと、岩国在住で上関原発の建設工事阻止のためにカヤックで行動した「虹のカヤック隊」のケンちゃんが車で迎えてくださり、オスプレイを押し付けられている岩国基地の見学をして、室津の港から船で祝島へ。

早速地元の漁師さん方が船を出してくださり、上関原発予定地、工事の進む田ノ浦へ上陸。早速中電から「ここを離れろ」という警告の放送が。

海は、限りなく美しい。その海を汚せば、もう漁は出来ない。「きれいな海さえあればずーっと暮らしていける。この海を残すのがわしらの努め」と島の方々は口々に言う。大間のあさこさんとまったく同じ言葉。

島では、30年間も週に一度の原発反対デモを続けてきた。月曜日の夕方港に行くと「げんぱつはんた~い、エイエイオ~」と、ゆったりと、でも力強く島のおじちゃん、おばちゃんたちが声を上げる。

島の人々は、明るく、みんな仲良く、よそ者を笑顔で迎え入れてくれる。このひとたちのおかげで、ワタシの故郷の瀬戸内海は原発から守られてきた。

ひとの絆を壊し、分断してきた原発は、島の暮らしとは一番不釣り合いなもの。都会の人間が豊かで便利な暮らしを追い求める中で、地方に、過疎の地に、むりやり札びらで押し付けられてきた原発という構造。

「豊かな海に原発はいらない」。その言葉に深く深く肯く島での日々。

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日本電源開発がつくっている大間原発と闘いながら、志半ばに亡くなった母親の熊谷あさ子さんのご遺志を受け継ぎ、お嬢さんの小笠原厚子さんはその地を耕し、お母さんと一緒に建てたログハウスで多くのときを過ごしていらっしゃる。

今回初めて厚子さんをお訪ねして、まず最初に驚いたのは、厚子さんがとびきりの笑顔で迎えてくださったこと。正直に言えば、「原発には土地を売らない」断ったがために村の中で分断され、壮絶な村八分に遭い、陰口をたたかれ、それでも「いつか分かってくれる」と頑張っていたあさ子さんの思いを受け継ぐ、厚子さんの笑顔を失礼ながら想像していなかった。

厚子さんの強い思いは、とにかくお母さんのあさ子さんの思いを大切にしたいという、母への愛情。その愛情の強さを感じるたびに、何ごとも、政治とかなんだとか難しい問題以上に、家族を大切にする心こそが根底にあると感じる。

厚子さんは、自分の土地の周りに張り巡らされたフェンスを指さしながら、勝手に「高圧危険」と書かれた看板を指して笑う。

この厚子さんの笑顔を見るたびに、厚子さんの人間的な温かみと魅力に引き込まれていく。この笑顔を見ているうちに、このひとをひとりで闘わせたくないと強く思った。

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本州最北端、なんといってもマグロが有名な大間に行ってきた。目的は自分の土地の一部をも接収し、目と鼻の先に大間原発がつくられることになり、「海と畑があれば生きていける」と原発建設に反対し、小さな「村社会」の中で、壮絶な闘いをした熊谷あさ子さんが守り通した土地に建つ「あさこはうす」を訪ねて。

迎えてくださったのは、あさこさんの長女の厚子さん。あさこさんの闘いの話を伺いながら一番思ったのは、厚子さんのお母さんに対する尊敬と愛情の念。だからこそ、いま厚子さんは残された土地であさこさんの思いを受け継いで闘っているのだろう。

厚子さんは、明るく笑う、笑顔のチャーミングな女性だった。強くて、でもしなやかで、ワタシはあっという間に厚子さんを好きになった。この人を撮りたい、この人を通じてその問題を切り取りたい。そう強く思った。

「ずっとお訪ねしたかったんですけど、なかなか機会がありませんでした。あさこさんがご存命の間に訪ねられなかったこと、遅くなったことが悔しいです」というと、厚子さんは「遅いなんてことはないんですよ。いつでも始められればいいんだから」と笑ってくださった厚子さんの笑顔に、包まれるような気持になった。

夜までいろいろな話を伺った。あさこさんが町のひとたちから妬まれ、嫌われ、村八分にされた壮絶な体験を話す厚子さんの目に涙が光る。「それでも、母は自分がやっていることは間違っていないし、いつかみんなもわかってくれるって最後まで信じていました」と厚子さん。

厚子さんの将来の夢は、このあさこはうすの周りで多くの作物を育て、家畜を飼って、日本中のそして世界中の子どもたちが自然や命に触れられる場にしていきたいというもの。

お目にかかる前は、こんなに壮絶な闘いをしているひとだから、もっとバリバリのひとなんだろうと勝手に思っていた。ところがお目にかかった厚子さんは、芯の強さと心のしなやかさを併せ持つかわいらしいひとだった。

金城実さんに出会ったときと同じような衝撃を受けた。実さんの時と同じように「このひとを撮りたい」と強く思った。厚子さんを大好きになった。

いまも、あさこはうすの周りは、原発の敷地に囲まれていて、四方八方をビリンと同じようなフェンスで囲まれている。監視され、フェンスで囲まれ、その息苦しさと圧力は相当なもの。それは、ビリンでよくよく分かっている。

厚子さんは、「畑と海があれば生きていける」と実践していたお母さんのあさこさんの言葉が正しかったことを、その生活を受け継いで守っていくことで証明したいと頑張っていらっしゃる。

ひとの弱みや泣き所に付け込んで土地を買いたたき、つくられていく原発。ひとに痛みを押し付けて使われる電力。もうそんなやり方は限界じゃないのかな。

原発反対でも賛成でもいい。大事なのは、自分たちが使っている電気はそうやってつくられているということを知り、意識し、そこから自分で選択すること。東京で電気が必要なら東京に原発を作ればいい。それが「危ない」っていうのなら、なんでそんな「危ない」ものを、ひとさまの暮らす土地には平然と作れるのかという欺瞞を、少なくとも心に留めたほうがいい。

電気は必要だ、そりゃそうだ、いきなり原始時代みたいな生活に戻れるわけもない。でも、身の回りのひとつひとつのもの、本当に電気ポットが、ウォッシュレットが、空気清浄機が…いろいろあるけど、必要なのか、他人を犠牲にしてまで使わなきゃならないものなのか、考えてみたほうがいい。

そういいながら、ここにPC使って書き込んでいるこの駄文も(笑)

写真は、あさこはうすに至る道から撮ったもの。向かって左のログハウスがあさこはうす。右が工事中の大間原発。

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