

と言うのも、以前に土門拳賞を受賞しているうちのボスこと写真家の長倉洋海さんが会場でトークをするので、御本人から招待券をいただいていた。「筑豊の子どもたち」とか「ヒロシマ」とか「古寺巡礼」くらいしか実際に写真集を観たこともなく、実際に土門拳の写真展に行くのは初めてだ。
会場は、主に50~70代くらいの年輩の方が埋め尽くしている。改めて不動の土門拳人気を思い知る。そんな中で、長倉さんのトークが始まった。
鬼の土門と呼ばれるほどに厳しさを持った写真家は、一方で市井の子どもたちや炭鉱労働者、被爆者など経済成長の中で片隅に追いやられた人々に対する、優しく温かい眼差しを持った人でもあった。脳血栓により倒れた後に、不自由な体で車いすに乗りながら撮影した古寺巡礼、どの写真も気迫が伝わってきて、観ているこちらがたじろぐほど。
長倉さんが言う「でも、子どもたちの間に入っていった土門さんは、鬼の土門ではなく、子どもたちと同じ視点で、まるで自分も一緒に遊んでいるかのように撮っていたはず。それが伝わってくる」「そして、被写体と向き合う姿勢が伝わってくる。写真を撮るということは、ある意味相手の人生にズカズカと踏みこむこと。覚悟なくては出来ることじゃない」「土門さんは常に社会の中での自分の作品の位置を意識した人。だからこそ、今でも人の心に残る写真家として大勢の人が注目する」
実はここ数日、会社を離れてから、何処にも属さず、まあ言ってみれば一介の失業者でしかない自分の身に不安を感じ、目標もしたいこともしっかりあるはずなのに、どうも居心地の悪さを感じていた。起きなければならない決まった時間もない、何かを始めなければいけないリミットもない、自由ってこんなにも不安なことだったんだ。それが怖くて、家に居る時間を作らないようにアレコレ予定を入れてしまっている。
そんな中で、一緒に会社を去った大親友と、彼女の地元近くの鎌倉を散歩した。彼女とは、この5年間ありとあらゆる苦楽を伴にした。本当にかけがえのない人。二人で雪と雨の降る鎌倉をゆっくり歩いた。たくさんの思い出を語りながら…。二人とも、正直言って最近の闘いで疲れ果てていた。この冬一番の寒さの中、二人でいくつかの古寺を巡った。
お寺に咲く花、美しい庭園、石仏や仏像の優しい御顔。不思議なほどに心が落ち着いた。お寺のつくりや仏像について詳しくないので、お互いの無知を悔いながらも、ただただその美しさに見とれた。
夜になっても別れがたくて、場所を変えながら話し込んだ。いつもと同じような別れなのに、決定的に違うのは、もうしばらく会えないってこと。今まで何百回と「じゃあね」と別れてきたのに、こんなに辛い「じゃあね」は二人には初めてだった。彼女は次の仕事が決まっていて、2日から新しい道を歩む。会えないことや、距離が友情を変えてしまう訳じゃない、そんなことは二人とも分かっているのに、藤沢の駅の改札で二人してハグしながらワンワン泣いてしまった。
土門拳の古寺巡礼の作品を観ながら、彼女と観た鎌倉の古寺を重ね合わせた。
そんな鎌倉の写真は、また後日改めて。








