世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

2009年06月

Watashi wa ima bilin mura ni kite imasu.
kinou no yoru tomodati no Haitham no video wo mite amari ni sinpai de bilin ni kimasita.
Minna genki de Haitham mo genki de ansinn simasita.
yominikukute gomennasai.

ototoi no dekigoto wa kore wo yonde kudasai.
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Bi'lin Invaded by Israeli Soldiers.
June 29, 2009
At around 2:30am two groups of around 35 soldiers (70 total) descended on the village of Bi'lin. They raided several houses, detained their inhabitants, and searched the inside of the houses. When members of the ISM and the Popular Committee of Bi'lin confronted the soldiers, they called all of Bi'lin a closed military zone and threatened to arrest anyone out of their house or anyone on top of a house taking pictures. In the course of these house raids, they kidnapped a 16 year old boy (Mohsen Kateb) from his house and took him away into the night. And they kidnapped a 16 year old boy (Hamoda Yaseen)from his house and took him away into the night. Haitham al-Katib, a respected Palestinian activist in Bi'lin was video taping the raids when soldiers aggressively pushed him against a wall and threatened him with arrest. Two members of the ISM intervened on his behalf and were able to wrest him out of the grasp of the soldiers. They then raided the house of Iyad Burant, the head of the popular committee, and threatened his 9 year old son (Abdal kalik) with physical harm if he didn't produce a camera he was holding. After several people including 2 internationals intervened by blocking the soldiers path, they were also threatened with arrest and were pushed by the soldiers. After repeated efforts, the soldiers gave up and left that particular house.

This raid follows on the heels of others that have happened almost every night for 2 weeks. Today's arrest now brings the total to seven people, who have been arrested and taken away since the onset of the raids. Bi'lin currently is facing the loss of sixty percent of its farmland due to the construction of the apartheid wall and the illegal settlements that have followed in the wake of the wall.

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For press, contact: Iyad Burnat-0547847942 bel3in@yahoo.com
www.bilin-ffj.org

ビリンのこと、記事にしてくれた友達の皆さんありがとう。あのビデオを最前線でまわした友Hことハイサム(本人が実名で投稿しているのでこちらも実名で)の二歳の息子さんは小児癌を患っている。毎週のように撒かれるガスにより土地や水の汚染がささやかれている。もちろんまだ正式な調査の結果は出ていないけれど…。このデモで村人たちは非暴力を貫いている。それでも投石をしている姿が見えるのは、イスラエル軍にお金を渡されて投石を促されている付近の村の若者がいるから。そうやって狙撃をする理由をわざと作っている。村人はそういう若者たちをコントロールしようと努めているが、デモが始まってしまうと目も手も届かなくなる。とても残念なこと。映像の中で燃えているゲートは自分たちの畑へ行くためのゲート。軍事的な立ち入り禁止区域に勝手に指定され、あのゲートも有刺鉄線で塞がれてしまった。

どうか、たくさんの人にこの事実を知ってほしい。国際法を違反している事実を許さないでほしい。このゲートと壁のせいで土地を失い、仕事を失った農民たちのことを知ってほしい。

最近、ビリンと平行して取材を続けているのが、エルサレム内の家屋倒壊問題。最近取材に行ったエルサレムのシルワン村は、運悪くシティオブデイビッドという古代のユダヤの遺跡が村の近くにあるために、その国立公園を整備するという名目で、何の補償もなく家を壊され、ホームレスにさせられている。イスラエル国籍を持っていても、アラブ人は勝手に家を建てられないため、彼らには何処にも行く場所がない。エルサレムのアラブ人人口を減らしたい政府は、どんどんこういう難癖をつけてアラブ人の家を壊している。壊された家の隣に住む家族をインタビューした。「次はうちの番だと思うと本当に怖い」と15歳の娘さんは泣き出した。ワタシには彼女を抱きしめることしか出来なかった。本当のプロだったら彼女の泣き顔を撮ったのだろうけど、それが出来なかった。すごく胸に突き刺さった涙だった。

悲しいこともたくさんあるけれど、みんな一様に前を向いて頑張っている。今日訪ねた西岸最大の難民キャンプバラータ、そこで仲良くなったMは7年間刑務所に入れられていた。肩に大きな傷がある。どんなつらい7年間だったのか計り知れない。でも彼は、自分のボロボロの愛車でナブルースで一番きれいな場所、家族が休日には連れ立ってゆっくり寛ぎにくる泉へ連れて行ってくれた。すごく優しい瞳をした人だった。今度はメストのためにうちの奥さんが腕によりをかけて料理を作るから、是非とも泊まっていってほしい…と言われた。たくさんの自爆攻撃に赴く若者を出しているバラータ。だけども、それだけが解決法じゃないことを知っている人もたくさんいる。きれいな泉を家族とともに見ようとしている人たちもたくさんいる。どうか、彼らがただ無事に生きていけるようワタシには願うしかない。

もうあと一週間でパレスチナの旅も終わり。正直言ってまだまだこれから…って気がする。深く知るには、これからが本番って気がする。でも、物事には終わりがある。自分の場合、どうしても帰って検査を受けなきゃいけないし、取材費にも限りがある。せっかく築いてきた絆を、どうやって大切にしていくか、それがこれからの課題。また戻ってこようと思う。そのためには、あんまりイスラエル政府に目をつけられないようにしないと。何人もの人権活動家の国外退去の話、再入国できない話を聞いた。ただ間違っていることにノーと言う声を上げただけなのに!

最後の一週間は、各地で仲良くなった人たちに挨拶をして廻る日々。そして金曜日はもう一度ビリンへ。

毎日西岸を練り歩いている。ひとつでも多くのことを知りたいから、一人でも多くの人の声を聞きたいから。昨日は先日も少し書いたビリン村の週に一度の、分離壁への抗議デモに参加してきた。

ビリン村は、西岸の主要都市ラマッラーから西へ16キロほどの場所に位置する小さな村。日本人監督による「ビリン 闘いの村」というドキュメンタリーも上映されたので、日本でもこの村の名前を耳にしたことがある人もいるかも。この村は人口1,800人ほどの村で、ほかの西岸の村々と同じく農業で生計を立てている村。ある日、この村の隣にイスラエルの入植地の建設が始まった。このこと自体国際法に違反しているのだが、何十年もこれを繰り返してきたイスラエル政府の蛮行を、未だにワタシたちは止めることが出来ないでいる。この入植地を守るために、ビリン村の中に分離壁が造られることになった。こうして村人の農地は補償もなく接収され、村人は暮らしていくすべを失い、貧困に襲われている。

しかし、この村の人たちは屈しなかった。この問題を組織的に世に訴えていった。村の闘いに連帯を示すイスラエルのNGOやIMSといった国際的な活動家たちと連帯し、メディアも大きく取り上げた。そして、裁判を起こし、イスラエル政府を裁判で負かし、毎週抗議のデモを続けてきた。しかし、毎週のように怪我人が出て(ゴム弾、ガス弾、サウンドボムにより頭を撃たれたり、足を撃たれたりして不随になったり、失明したり)犠牲者が続出している。裁判で勝ったのに、村人は自分の土地を取り戻せず、自分の農地へ行くことも出来ず、日々イスラエル軍によって大切なオリーブの木を焼かれている。そんな中で、決して石ひとつも投げずに、自分の言葉だけで闘ってきた村の若者バーセムがデモの途中に射撃され、殺された。

バーセムの遺志を無駄にすまいと、より一層村人たちは団結して抗議の声を上げ続けている。危険だと分かってはいたけれど、どうしてもこの村のデモを撮影したかった。昨日ようやくそれが叶った。

現在の状況を英語とアラビア語で説明する集会の後、村人たちのデモが始まった。イスラエル軍が狙撃の準備をして待ち構えている分離壁建設用のフェンスへ声を上げながら歩いていく。最前線では、パレスチナの旗を振ってフェンスを引き倒そうと頑張る人たちの姿が。鶏が先か卵が先か…と同じように、やがて投石とガス弾、サウンドボムの応酬が始まった。実弾ではないとは言え、怪我人は毎週のように続出し、死亡者まで出ている最前線、さすがに怖かったけれど、先週仲良くなった村人のカメラマンHとM(彼らはカメラとビデオで毎週様子を記録している)と一緒に前線で撮影を続ける。やがてガス弾が雨アラレのように降り注いできて、ガスマスク(百戦錬磨のジャーナリストは前線でガスマスクを被って撮影している)のないワタシとMは涙と嘔吐と息苦しさとでのたうちまわる。少し後方に下がり、救急隊にガスを中和するアルコール綿を貰いながら、みんなでそれを分け合いながら、涙と鼻水だらけの顔でふっと一瞬目を見合わせて笑いあう。「さあ、頑張って戻ろうか!」どちらからともなく誘い合って前線へ戻って撮影やデモを続ける。最悪にシビアな状況の中で、同じ苦しみを味わいながらふっと生まれる心の絆と連帯感、これはやっぱり現場に行かないと、一緒に闘わないと絶対に得られないもの。前回の村への訪問の際に案内してくれ、仲良くなったHとM。Mのお兄さんが頭を狙撃で割られて、それでも後遺症もあまり残らず元気になったという話を聞いて、実際にお兄さんに会って「よかったねえ」と思わず日本語で言ったその言葉を二人はすっかり気に入って、ガスを浴びながら泣きながらもまだ元気で頑張るお互いの姿に「ヨカッタネエ!」を連発してワタシを和ませようとしてくれる彼ら。多分、この不正を伝えたい、記録したいと願う気持ちはお互いに共通するもの。一緒にカメラを抱えながら、言葉では表せない絆を感じる。

幸いにも、深刻な怪我人は一人も出ずに終了。本当に得がたいものを得た一日だった。シビアな状況の中でふっと微笑む人間の強さ、彼らの強さ、それに出会えたことは、自分の中ですごく大きなものになった。彼らを追い続けたい。、もう決して遠い地の他人事ではない。一日も早く村に平和が戻ることを、不法な占拠が終わることを祈りつつ、その闘いにこれからも関わっていけるといいなと強く想った。

昨日の様子が早速公式HPにアップされています。
http://www.youtube.com/watch?v=dy6_mATosCU&feature=player_embedded

今日は再びへブロンの撮影に出かけてきた。ここは何度も書いたけれど、極右の入植者がイスラエル軍に守られながらジワジワとパレスチナ人の住む地域を侵食し続けているピリピリかんの漂う町。アラブの色が濃く残る旧市街も今ではイスラエル軍の管轄下におかれているので、人々が日常を営む中にイスラエル軍のパトロールがあり、監視カメラがあり、パレスチナ人は通れなくなってしまった道があり、毎日のハラスメントに耐えられなくなって無人となってしまった住居跡がある。以前と比べて旧市街の多くの店は被害を被って店を閉めてしまった。他に店を構える余裕のない人は、危険を承知で必死で踏ん張っている。今日はゆっくりとこの旧市街だけを時間をかけて撮影して歩いた。

パレスチナ自治区は中国製の製品が溢れているので、道を歩くと日本人か?と聞かれることよりは中国人か?と聞かれることのほうが多い。もっとも日本人だと答えると、この場所には観光客は限りなく少ないので今度は必ずジャイカで働いているのか?と聞かれる。フォトグラファーだと答えると、そうかそうかこの現実をしっかりと写して帰ってくれと。

先週訪ねた時に出会った人たちが、みんな笑顔で迎えてくれる。たくさんお茶をご馳走になる。今日はパレスチナ人の女性の自立を助ける活動の一環で、伝統的なパレスチナの刺繍の施されたクラフトを売っているお店でいくつかのポーチを買ってきた。こういうものを、日本で紹介できればいいなあと思った。そして、少しでも女性たちが自分の人生を自分で設計していける手助けになるといいなあと。差し当たり、ワタシに出来るのは、出来るだけこの商品を買って帰ること。安くはないので限りはあるけれど。

話は遡り昨日のことになるが、分離壁にほぼ四方を囲まれた町カルキリヤに行ってきた。町全体がイスラエルとの境界であるため壁で囲まれた町。この閉塞感。壁のすぐ手前にはずっとオリーブの畑が広がっていた。この町でも、この胸のむかつく壁を造る為に多くの農家が土地を失い、多くの木が切り倒されたのだろう。この問題は、西岸全体を取り巻く問題。どこに行っても分離壁と検問所。今日も帰りに検問所でバスの中を検問するため全乗客が降ろされた。ジリジリと照りつける太陽の下で、パレスチナ人の乗客はただじっと黙って待っている。ワタシも一緒に待っている。兵士があごをしゃくって「乗ってよし」と言う。乗り込む際に、パレスチナ人のバスの運転手に「申し訳ない」と言われた。この状況に何の非もないパレスチナ人の運転手に!「あなたが謝る必要はまったくないよ」そう答えるのが精一杯だった。この不条理が日常。

エルサレムに戻ってきて、住居を無理やり壊された人々を訪ねてきた。毎日この横をバスで通りがかるのだが、「民族浄化をやめてくれ!」と書かれたノボリがいつも気になっていたので、途中でバスを降りて思い切って訪ねてみた。去年の11月に突然「ユダヤ人の入植地をここに造る事になったから」と言う理由で長年住んでいた家屋を壊されたとのこと。今東エルサレムでこういう話はたくさんある。何とかエルサレムからパレスチナ人を追い出そうと、あの手この手でパレスチナ人の住居を壊している。「何とか一人でも多くの人にこのことを伝えてほしい。ワタシたちは家畜じゃない、こんな風に追い立てられてどこへ行けと?どうかイスラエル政府にこんな酷いことを止めさせるように、一人でも多くの人に力を貸してほしい」胸に迫る訴えだった。彼らはほとんどが1948年の戦争によって難民となりエルサレムに逃れてきて、ずっとエルサレムで暮らしてきた人。彼らは家を壊されて再び難民となった。

日常に笑顔はたくさんある。笑顔だけを見ていたいけれど、ここには悲しみもたくさんある。たくさんありすぎて、段々聞いているこちらの心が麻痺してきそうなくらい。ひとつでも多くのことを知りたい。少しでも深く知りたい。今回の滞在で出来ることは限られているけれど、ベストは尽くしたい。

先日はいろいろ書こうとしたら「さあ、これからだ」とエンジンがかかってきたところに「ごめん、そろそろ閉店したいんだけど」の声。ここエルサレム旧市街の夜は早い。アーケ-ドの市場になっているこの地域の店は大体8時くらいには店じまいだし、このネットカフェの閉店時間も夜10時。もちろん新市街は日本と変わらない感じだけど、この期に及んでまだ出来るだけイスラエル側にお金を落とすことを避けているワタシは、今回新市街には足を運んでいない。

今日は事情があってエルサレムでの休養日と決めているので、ここ最近訪ねた町の話でもゆっくりと。

特に印象深かったのは昨日訪ねたビリン村。この村はエルサレムとテルアビブを結ぶ主要な道路のひとつがすぐ傍を通っており、この村の外に境界線があるため村の中に分離壁が造られてしまうことになった。しかも国際法で定められた境界線から7キロもパレスチナ側に侵食して。このために多くの村人が自分の土地を失い、畑を失おうとしている。村ではこの4年間、毎週金曜日に分離壁反対のデモを行っている。イスラエル軍は容赦なくガス弾を撃ち込んでくる、容赦なく火を放ってくる。最近遂にこの平和裡なデモ…石ひとつ投げることのないデモ、ただただ言葉で訴え続けている…の参加者の村人が撃ち殺された。焼かれたオリーブの木、殺された人の家族を訪ねて話を伺ってきた。それでも、この村の人は諦めない。たくさんの優しさと笑いが溢れた穏やかな村。心の底からこの村が好きになった。

2002年に大虐殺の起こったジェニン。この町で一番ひどい被害を受けたハワシーン地区の難民キャンプを訪ねた。町は瓦礫の山ではなくなっていたけれど、警戒心を露わにした住民たちから「何しに来たんだ」と何度も問われた。初めてで何のツテもないので、彼らの警戒心を解きほぐす材料をこちらも持ち合わせていない。この地区でも、無差別にただ男性だというだけで、罪もない大勢の人が虐殺された。その証言集を手に入れて読んでいるが、とても辛い事実の羅列に苦しくなる。一回目の訪問で、出来ることもあまりないまま懐に潜り込めず佇んでいると、難民キャンプの子どもたちが助けてくれた。「自由劇場で人形劇をやっているから観においでよ。招待状あげるから一緒に行こうよ」と手を引いて連れて行ってくれた。娯楽のない難民キャンプで、子どもたちが大歓声で大笑いできるところ、それが自由劇場だった。とても印象深かった。

ナブルースでは、二件隣がダイナマイトで爆破されたため、その余波で建てたばかりの家を壊されたお宅を訪ねた。何の罪もない一軒の家が、何の補償もなく壊される。そのショックで高齢のお姉さんは心臓発作で亡くなってしまったと。全財産を家の建築に費やしたため、もう修理をするお金はないと、2年たった今でも壊れた場所はそのままにしてある。

へブロンもひどい状況になっていた。パレスチナ人の暮らすすぐ傍まで入植地が迫っていて、そこから侵入されて窓ガラスを割られたり、水のタンクに穴を開けられたりが日常茶飯事だという。イスラエル軍に軍事力で守られたへブロンの極右の入植者たちはやりたい放題だ。店が続く商店街だった旧市街は、ほとんどが被害を恐れた商店主によって閉められたままだ。商売で得る利益よりも、遥かに被害額が大きいから。

さて、ネットカフェで体が冷えてきたのでこの辺にして散歩に行ってきます。

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