世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

2009年07月

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きっと「エジプト・パレスチナへの旅」をワタシの旅の間、読んで下さっていた方々は、この日のことを覚えていらっしゃると思う。

6月26日、朝から太陽がジリジリと照りつける暑い日だった。午後の礼拝が終わった後に始まる週に一度の恒例のビリン村の分離壁反対デモに出かけた。集合場所に着くと、前回の村への訪問で村を案内してくれた写真家のマンゴーが大きく手を振ってくれている。見知った人の姿に緊張していた心が少しほぐれる。

村に来る前、この村のデモの話をエルサレムに在住の活動家の方から詳しく伺った。容赦ないイスラエル軍の攻撃で、毎週のように怪我人が出ること、重傷者、死者までも出ていること。外国人と言えども容赦なく、怪我を負わなくても、カメラなどは叩き壊されることもあること…などの話を聞いていた。そんなワタシの心は少しナーバス。

デモが始まり、FFJのスポークスマンバーセル氏とカナダ人の活動家にしてジャーナリストK氏の声明の発表や質疑応答などプレスカンファレンスが行われた。そして、いよいよイスラエル軍の居る分離壁建設予定地のフェンスへ。パレスチナの旗を振り、占領や壁への反対を謳いながら行進を続ける。やがて、容赦ないガス弾とサウンドボムの攻撃が始まった。

活動家は前線でガスを浴び、少し後方に撤退して体調を整えてからまた前線に向かう。後方には、ガスを中和する為のアルコール綿を配ったり、いつでも重傷者を運べるように忙しく動いている赤新月社のスタッフの姿が。彼らも命がけ。

ガス弾に包まれて辺りが真っ白になった。もう用意していたスカーフでは防ぎきれない。あまりに痛くて目も開けられず、呼吸も出来ず、皮膚はしみるような激しい痛み。少し後方でゲ―ゲー吐きながらふっと顔を上げると、涙と鼻水でグシャグシャになった友マンゴーの姿が。一枚のアルコール綿を二人で分け合って、涙でグシャグシャになりながらも、まだ元気にカメラを握ってるお互いの姿に大笑いしながら「ヨカッタネエ!」。そして、励まし合いながら(いや、主にワタシが励まされながら…)一緒に前線に撮影に戻った。

初めて村に行く前、マンゴーのお兄さんのハミースが、デモで頭に銃撃を受けて瀕死の状態だったフィルムを観ていた。そして、元気に歩いている本人に会った時、あまりに驚きで(正直言って頭をあんな風に狙撃されて無事だったとは考えてもみなかった)、思わず日本語で「よかったねえ!」と叫んでしまった。その日から、マンゴーやハイサムは何かと言うとニコニコ笑顔で「ヨカッタネエ」を連発。デモの間も、何度も「ヨカッタネエ」と言っては和ませてくれていた。

涙と苦しさでグシャグシャになりながらも、お互いにふっと顔を見合せて笑い合う瞬間が、たまらなく愛しいものに思えた。こんなにある意味ではシャレにもならない状況なのに、共有する思いがあること、そしてそんなものに出会えたこと、それがとても幸せだと思った瞬間だった。カメラを通して、何かを一緒に伝えたい…お互いにそんな思いを共有すること、昼夜を問わず、たくさんのことを語り合った友。ビリンはそんなかけがえのない友に出会わせてくれた場所。

写真はデモの最中、涙グシャグシャになりながら「ヨカッタネエ!」と言った瞬間のマンゴー

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パレスチナ西岸地区の主要都市、自治政府議長府などがあるラマッラーから西へ16キロ、いくつもの丘を越えたところに人口1800人のビリン村がある。地図を広げてみれば、イスラエルの二大都市エルサレムとテルアビブを結ぶ街道の脇に位置し、その地勢ゆえなのかビリン村の近くには、Modi'in llitという大きな入植地が造られ、ビリン村の目の前すぐ傍にMatityahu Eastという入植地が造られた。

そして、西岸のいくつかの町に「保安上の理由から」分離壁が造られることになった時、ビリン村はこのMatityahu Eastを守るための分離壁と対峙させられることになった。この入植地は1980年代に造られたMatityahuに付属する入植地として、何と2002年に造られた。パレスチナ自治区内にある入植地こそが、和平交渉を妨げる原因の一つだとして、その違法性を含めて散々世界中から非難されたその後に造られたと言うこの事実。世界中は何をしていたのだろう。勿論ワタシも含めて…。

この入植地のため、そしてこの入植地を守るためのルートを採り分離壁の建設が始まったため、ビリン村の総面積の半分ほどの土地が分離壁の向こう側に位置することになってしまった。一般的に(たとえ分離壁自体に問題があるとしても)分離壁は将来の国境となる可能性が一番高い、グリーンライン上に敷かれると、パレスチナ側も国際社会も考えていた。ところが蓋を開けてみると、グリーンラインを遥かに越えて、ビリン村のようにパレスチナ側の内側に分離壁が造られることになった。こうして、ビリン村を含め西岸の多くの町や村は、その土地を分断され、自分の畑に行くことも出来なくなり、今まで通っていた道が塞がれ、生活を根本から壊された。

ビリン村の主要な産業は農業。多くの耕地が取り上げられ、多くの家庭が収入の道を断たれ貧困に突き落とされた。狭められてしまった耕作地では、村の人口を支えきれない。西岸地区に産業が育っていないため、他の町へ働きに出ることも難しい。ましてや西岸に住むパレスチナ人がイスラエルに働きに行くことなど(許可証のある一部の人間を除いては)出来やしない。太古の昔から、農業に生きてきた村だった。農業こそが、この村を支える生業だった。村人たちは話し合った。生きていくためには「村を捨てて海外へ出稼ぎに行くか、貧困ラインで飢えるか飢えないかギリギリの生活をしていくか、もしくは違法に取り上げられてしまった村の土地をみんなで団結して取り戻そう」と。

こうして村の闘いは始まった。村の運動を組織化して(FFJを立ち上げた)、イスラエルや海外の活動家とも連帯し、分離壁の違法性国際社会に訴え、入植地や分離壁の建設を請け負った会社に対して訴訟を起こした。国際司法裁判所も、イスラエルの最高裁ですらもこのビリン村のケースを「違法であり、分離壁建設ルートの見直しを命じる」とした。しかし、その行使を求めてデモで訴える村の活動家を、毎週のようにガス弾、サウンドボム、ゴム弾、汚水などで攻撃し、死者をも含めた犠牲者は増えるばかりだ。この分離壁の違法性を訴える活動家の逮捕、拘束が後を絶たないことも、日々お知らせしている通り。

日々撃たれ、拘束されている村人たちはテロリストなんかじゃない。自分の生活を必死で守ろうとしている人たち。自分たちの子どもや孫に、なんとかこの美しい村を、この村の産業を残したいと願う人たち。彼らの人間として当たり前の願いを、どうか叶える力を世界のみんなが貸してくれますように。

画像はビリン村のどれほど多くの土地が分離壁によって取られたかを表す地図。そして村のFFJの活動家たち。

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エルサレムの旧市街にある、最も安い部類に入るホステルに滞在していた。8人部屋で、男女の区別もないドミトリー、オーナーの爺さんの他に従業員は一人しかいないので部屋も荒れ放題、シーツやまくらカバーも自分から要求しなければ、永遠に変えられることはない。ダニや南京虫も出没。傾いたベッドか、虫が居るベッドか…究極の選択。共同のトイレは宿泊人数を支えきれず汚れ、カギのかからないシャワー室も同様。最初は、安いと言うだけで決めたが、すぐに自分の選択をひどく後悔した。孤独なうえにこの部屋は辛い。しかも、ドミトリーの部屋には、入れ替わり立ち替わり何人か集団でやってきたバックパッカーが、エルサレムの教会と嘆きの壁と死海だけを観光して、イスラエルを知ったような気になって去っていく。すべてが苦痛だった。

大きな荷物をうっかり下ろしてしまったので、不快に感じながらも段々と新しい宿を見つける気力がなくなっていた。昼間は外に出ているし、傾いてもいない、虫もいないベッドを確保したし、キッチンは自由に使えるし、シャワーのお湯もいい温度だし、何よりここに長期滞在している活動家の友人が出来た。彼らの口から語られる話は本当に面白く、刺激的で、自分の取材や撮影の道しるべとなった。

ところで、この宿にはシングルルームもあり、ここにも長期滞在者が居た。ある日屋上でお茶を飲んでいると、Aが話に加わってきた。顔立ちやアクセントからアラブ人だと言うことは分かった。何日か経ってから、アラビア語で話しかけてみると、自分はパレスチナ人なんだと彼は言った。

彼は、西岸地区某Bという町のパレスチナ人。パレスチナ自治区のパレスチナ人でありながら、6000人に一人の確率と言われるイスラエル領内での労働許可証をゲットした人だった。ただし、彼の家のあるBからイスラエル領内に入ってくるには、毎日検問所で気が遠くなるほどの列を並び、検問を受け、許可を貰って入ってこなければならない。彼の仕事は、某交通機関の車両点検職。早朝からの仕事なので、それでは仕事に間に合わない。仕方なく彼は、エルサレム(イスラエル領内と言えどもパレスチナ人が多いので)の安宿に身の回りの小さな荷物と身一つで滞在している。

彼の楽しみは、涼しくなった夜に屋上で水煙草を吸うこと。ワタシも水煙草が好きなので、Aに招かれて屋上でプカプカやりながら話をするのが日課のようになった。そして、ワタシも自分のパレスチナとの関わり、パレスチナでやりたいことなどを話すようになった。

「僕は実は大学の専攻は法学だったんだ。卒業してからしばらくは弁護士として働いてみた。でも、パレスチナ自治区の中で弁護士として食べていくことは出来なかった。だから諦めざるを得なかった。昔は抵抗についても考えた。こんな僕も子どもの頃は石を投げて逮捕されたこともあるんだ。でも、今は政治には関わりたくない。キツイ仕事だけど、それでも確実に稼いでいる。今まで5年やってきて、もう故郷に自分の家も建てたんだ。あと数年頑張れば、それを元手に地元で商売でもはじめてノンビリ暮らしていける。そのためには、他のことはすべてどうでもいいんだ。君が追ってる分離壁や家屋倒壊の問題…それらが大変なことなのは分かっている。でも、僕には何も出来ないんだ。声を上げることも、行動を起こすことも。何と言われてもこの労働許可証を守り通して、ここで働いていたいから」

きっと、ワタシが彼の立場でも同じことをするだろう。彼にとっては、ワタシのように町から町へ出かけて行って、問題を掘り起こして、撮影をして、デモで声を上げて…なんてのは、一種の贅沢なのだ。イスラエルの巧妙な政策により、パレスチナ自治区の産業は育たず、工業、農業、商業いずれの分野でもイスラエル経済に組み込まれ、従属させられることになったのがこの60年間の占領の実態。

ある日Aがワタシや宿に住む活動家の友達を晩御飯に招待してくれた。彼が休日の半日を費やして腕によりをかけて作ってくれたアラブ料理のコース。それを屋上でみんなで食べた。本当に優しい人だった。常にニコニコ笑顔を絶やさない人だった。デモで声を上げて傷つく人たちも大変だけど、声を上げることを止めると決めた人はもっと大変なのかもしれないと思った。

そして、こんな苦渋の選択を彼らに強いているのも、またひとつのパレスチナ問題。

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2002年にイスラエル軍による大規模な侵攻作戦で、大虐殺のあった町ジェニンを歩いた。

一番被害が酷かったと言われる、難民キャンプのハワシーン地区。キャンプへの侵攻を防ぐため、キャンプの住民を守るために多くの若者が地下にもぐり、抵抗の闘いを続けた。しかし、戦闘員のほとんどは殺され、戦闘員と疑われた人だけでなく、明らかに非戦闘員である人々も、男性であると言うだけで通りに集められ、次々に銃殺されたと言う。また、片っ端から住居をブルドーザーや爆破により破壊したため、多くの人…お年寄りや女性や子どもたちすらも…が住居の中で殺されていった。

一見しただけでは、ほとんどの建物がUAEなど湾岸産油国の援助により立て直され、目に見える傷跡と言うのは7年経って減っていた。しかし、通りで出会う大人たちの視線は厳しく「何をしに来たんだ?」
「写真家が何をしてくれると言うんだ?」と何度も厳しく詰問された。もしくは冷やかな視線だけを投げかけられた。あの虐殺を生き延びた人々の心の傷の深さを感じる。一度や二度、フラフラと現れたような人間に、出来ることなど何もない。それをはっきりと自覚しながらも、次につなげるためにはまずは自分の足で歩き、人に出会うしかない。

その侵攻と虐殺の際には、まだ生まれていなかったであろう子どもたちだけが、猜疑のまなざしではなく、正面からニコニコと微笑みながら歩み寄って来てくれる。すっかり意気消沈した心に彼らの満面の笑みはしみわたる。

「これからこの近くの劇場で劇が始まるんだ。切符をあげるから一緒に行こうよ!」と手に握りしめた切符を分けてくれる。彼らについて行くと、「自由劇場」と書かれた劇場があった。難民キャンプの子どもたちのための数少ない娯楽の場として人形劇が上演されている。二階建ての建物の中に入ると、舞台の上の登場人物(人形)に、あいの手を入れながら、お約束のオチに歓声を上げながら、子どもたちの喝采と笑い声が響いている。「ね?面白いでしょ?」子どもたちはワタシが頷くのを待っている。

少しずつ、少しずつ時間をかけてしか築けないものがある。当たり前のことだ。そんな当たり前のことを深く刻みこんでくれた町、それがワタシにとって初めてのジェニン。

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ワタシがボランティアスタッフを務めます「アフガニスタン・山の学校支援の会」総会および写真家である当会代表長倉洋海氏による現地報告会が決まりました。

東京:9月13日(日)13時より
   武蔵野芸能劇場(JR中央線三鷹駅北口駅前)→終了しました。


大阪:10月17日(土)13時より
   高槻現代劇場・市民会館集会室402号(阪急高槻市駅徒歩5分、JR高槻駅徒歩12分)

http://www.h-nagakura.net/yamanogakko

今年は2年ぶりの長倉代表の現地訪問も行われ、スライド・トークも展示写真パネルも新作!最新の現地の子どもたちの様子をお届けします。

また今年は、会場での物販の充実を図る予定。
・長倉代表の作品で作られた子どもたちの写真のTシャツやトートバッグ

・写真集「アフガニスタン山の学校の子どもたち」と「ワタネマン」
 最新作「子どもたちのシルクロード」「地を駆ける」(予定)

・新たに作られるポストカード集第5集(新作写真3枚セット)第6集(子どもたちの絵5枚セット)

・長倉代表の写真のJVCカレンダー(会を通してお買い求めいただくと、売上の3割が会への収益となります。)

・現地より買い付けた伝統的なバーミヤン織のバッグ・ポーチなど(予定)→戦争で未亡人となったり、苦境にあえぐ女性の支援活動の一環として(今回は試作品の展示のみ)

スタッフ一同、全力で企画や準備にあたっております。アフガニスタンの子どもたちの笑顔に出会いに、是非とも多くの方にご来場いただきたいと思います。

*当会では、会費をお支払いいただき、子どもたちを支えて下さっている皆様に会報をお送りしております。その為の通信費を賄うため、ご自宅などに眠っている未使用切手、書き損じハガキ(残ってしまった年賀状なども)を募集しております。
何か、子どもたちのために…とお考え下さっている皆様、宜しければ報告会会場にそれらをお持ちいただければ幸いです。

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