世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

2010年05月

海上からガザへの人道支援に向かっていた船を攻撃し、十数人を殺害したイスラエル軍。

完全に封鎖されたガザの人々への支援と、連帯を示すその行動を、殺害で応じるイスラエル軍。

その数日前には、NPT最終文書に絡み、エジプトがアラブのメンツをかけてアメリカに詰め寄り、核を持っていることが公然の「秘密」であるイスラエルにNPTの加盟を促し、中東非核地帯構想に向けた国際会議への参加を求める一文を入れ、採択までこぎつけたが、イスラエルは拒否。

自分たちだけが特別で、自分たちだけは何をやっても許される…っていう、その傲慢さがムカツクって言ってんだよ!

「中東における大量破壊兵器の問題はイスラエルではなく、NPTに署名しながら決然と違反している国々(イスラエルはイラン、リビア、シリアを名指し)だ」との理由での拒否。署名すらする気も見せないアンタタチはじゃあなんなのさ。

イヤードから先ほどメールが来た。「第三次インティファーダ目前」。

ああ、そうだろうなあ。

始まるだろうなあ。

そしてまた多くの人が死んでいく。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

友達のさくらママさんの家で、先日「パラダイス・ナウ」を一緒に観てきた。
http://blogs.yahoo.co.jp/mikairvmest/33150984.html(映画「パラダイス・ナウ」について)

映画の主人公サイードの日常と絶望は、まるで映画の作り話のようには感じられない。パレスチナ全土に、周辺諸国の難民キャンプに、サイードと同じ境遇に置かれた人は数え切れないほどいる。

その主人公たちが生まれ育ち、暮らすナーブルスの難民キャンプ、バラ―タにワタシにも大切な友人がいる。彼らとは、衣料品市場で知り合った。そこに小さな子ども服の露店を出すムハンマドは、お店を早じまいして「俺の車でバラ―タを案内してあげるよ」と言ってくれた。そして、市場に買い物に来ていた親友のアミールを途中で拾って、ものすごく年代物の車でバラ―タへと向かった。

ムハンマドとアミールとタムタムともう一人のムハンマドで、バラ―タの難民キャンプのなかを歩きながら、お茶を飲んだり、おやつの買い食いをしたり、写真を撮ったりして過ごした。ムハンマドの家にも少しお邪魔して小さな息子さんとムハンマドのポートレイトを撮った。彼の奥さんから「今日はうちへ泊っていって!」と強く勧められたが、翌日にエルサレムで約束があったので、残念ながらそれは叶わなかった。

バラ―タのなかにある農場で、ロバが好きなワタシのために乗ロバをさせてくれたり、その後は「メストにナーブルスで一番キレイな場所を見せてあげるよ」とドライブに連れ出してくれた。

向かった先は、丘をいくつか越えて辿り着いた鉱泉だった。とても豊富な水源がある場所のようで、いくつもの保養所みたいな建物とプールがあった。日本の海の家みたいに、お金を払って寛ぐスペースを借りたり、浮き輪や水中ゴーグルを売っていたり、ちょっと懐かしい光景だった。

「休みの日に家族連れでここへ来たり、ナーブルスッ子の憩いの場所なんだ」誇らしげにムハンマドが言った。

ムハンマドは、少年時代に「地下武装組織」の一員と疑われ、七年間もイスラエルの刑務所に入れらていた。疑いを晴らせないまま何年も刑務所に入れられた話は、ここではザラにある。そして、その尋問で拷問にかけられたムハンマドには肩から背中にかけて大きな傷がある。彼の穏やかな微笑みからは、そんな過去はうかがうことが出来ない。市場でムハンマドが店じまいの準備をしているのを待っている間、ムハンマドの師匠ともいうべき市場の世話役のおじさんが話してくれたことだ。

ムハンマドは、自分の口からはそんな過去の話はなにひとつしない。誰かにその話をふられても、「今は愛する家族とひっそりと生活出来ればそれでいいから」と静かに微笑む。息子さんの動画をいくつも携帯電話に保存していて、嬉しそうにそれらを見せてくれる。

その日一日、みんなで思いっきり寛ぎ、笑い、腹がタプタプになるほどお茶を飲み、夕暮れがやってきたので、慌てて街へと引き返し、ムハンマドはモジャンマア(バスターミナルみたいなもの)に送り届けてくれた。「今度は本当にうちに泊まりにおいでね。うちの家族と一緒に鉱泉にピクニックに行こう!」。

映画「パラダイス・ナウ」のなかで、「自爆攻撃」に向かおうとするサイードと、体と心の傷を抱えながらも微笑み続けるムハンマドの違いは、本当に紙一重だと思う。小さな小さな希望を、みつけて、それを信じることが出来るかどうか、失わないでいつづけることが出来るかどうかの違い。

ワタシには、ムハンマドのような人が、その胸に抱える小さな夢や希望を、どうか守り続けられますようにと、祈ることしか出来ないでいる。

人間の命や尊厳が、こんなにも軽んじられていいのかね?
 
沖縄の問題にも、まったく同じことが言えるけど。
 
ときには停滞しようが、成果が見えない沼に足元をすくわれようが、同じことを粘り強くアピールし続けるしかない。
 
突き詰めると、虚しくなるけどねー。

イメージ 1

イメージ 2

ヘブロン(アラブ名はアル・ハリール)を歩いていると、いつも哀しい気持ちになってしまう。人間の底なしの悪意と偏狭さが圧縮された町のように見えてしまうから。

ヘブロンの旧市街は、昔2000年にパレスチナを訪れた際には活気のある町だった。その後第二次インティファーダが始まり、2001年にその真っ只中に行った時でさえ、外出禁止令などによって人々の往来は妨げられていたけれど、人の生活の息遣いまでは消されていなかった。

その後、この町はいくたびも制圧を受け、旧市街の商店は店を開けることすらが禁じられた。そして、ずんずんと旧市街のど真ん中に武力を持って入植してくる入植者と、彼らを守る数千名規模のイスラエル軍の暴力、嫌がらせ、圧力によって、多くの人が旧市街の住みなれた家を、店を捨てざるを得なくなった。それだけが命を、家族を守る唯一の手段だったから。

昨年、ようやくパレスチナを再び訪れることが出来て、なによりも驚いたのは、その旧市街のゴーストタウンぶりだった。「これでも、少しは客足が戻ってきた方だ」とまばらに開けられた商店の主は言う。しかし、人でごった返していたような昔の光景は、そこにはなかった。開いている店も、数十軒に一軒くらいの比率でしかなかった。「みんな商売にならないから、新しい市場へ移転していったよ」。

誰もが、移転出来たわけでもなかった。また、そもそも移転なんてする筋合もなかった。2002年以来6年ほど、一切の営業を許されなかったという旧市街の店主たち。それでも、そこに残り、そこで再び営業を再開した店主たちがいた。

そのうちの何人かは、9年前に撮影した写真のお陰で、記憶が残っていた。変わったもの、いや、無理やり変えられたものばかりのこのヘブロンの旧市街の光景の中で、変わらないお店、変わらない店主がいたことなんて奇跡のようなものだった。

旧市街では、相変わらず入植者の暴力や嫌がらせが多発していた。旧市街の金網(パレスチナ人の店主たちが階上に住む入植者たちのゴミなどの投下を防ぐために張った)に載った「悪意のカタマリ」を眺めていると本当に悲しくなる。ゴミだけでなく、火炎瓶までが投げ込まれることもある。

そんななかで黙々と小さな店で商売をまた営んでいる人たちに会うと、人間の営みって本当に尊いなとも思う。でも、その次の瞬間には、やっぱり人間の排他的な偏狭さを、町を我が物顔でパトロールする兵士や、その兵士の心ないパレスチナ人たちへの態度や、金網のゴミや、撃ち込まれた銃弾の痕などをみて、悲しくもなる町である。

イメージ 1

イメージ 2

それは、ビリン村に侵入してきて、村人たちが大切に育てているオリーブの木を焼き払うこと。

一年に一度の収穫で油を採り、それを売って生計を立てるのがこの村のほとんど唯一の産業。

なにが「国防」だ。

なにが「安全保障上」の理由だ。

クソヲクラエ。

写真はマンゴーから送られてきたもの。

ビリンに滞在するアイルランド人のTと、途中からハイサムが撮ったものをつなげた映像
http://www.youtube.com/watch?v=Z89Zjzb4LXM&feature=player_embedded

↑このページのトップヘ