世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

2010年06月

旅は二日目、朝起きてホテルで朝食を食べてチェックアウト。目の前の勝山町電停から道後温泉行きのいよてつに乗る。一日まるごと道後温泉とその周辺散策を。
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町中をとことこ走るいよてつ。

あっという間に道後温泉駅へ到着。町中から歩いてもいけそうだ。
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そして、観光客用にはこの坊っちゃん列車

道後温泉は、とにかくベタな(もちろんいい意味で)観光地!これでもかというほどに、あちこちに観光地としての王道が貫かれている。潔いほどの観光地。観光客が観光客面丸出しでも恥ずかしくない町。ハイカラ通りと名付けられた商店街でのお土産物あさりが楽しい。

松山にほど近い今治の名産品であるタオルを扱ったお店で、まだ一日の始まりだと言うのにタオルを買いまくる。この店の名前は「伊織」。家族同然に仲良くしている一家の長男と同じ名前。最近スポーツを始めた彼へのお土産はこれに決まり(笑)

そして、次に向かった先は、砥部焼を扱うお店数軒。とべ動物園のある砥部は焼き物の里として有名な町。器が大好きなワタシ…本当は砥部の窯元を訪ねたかったけれど、タイトな旅のスケジュール上断念。この道後温泉でお気に入りの器を探す。
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この道後製陶社で中田窯のご子息、中田太郎氏の作品を気に入ってゲット。素朴な器に描かれた蓮の花がかわいかった

そして、もう一軒の酔古堂で梅山窯、梅野製陶所のお皿をゲット。大した料理もしないくせに、カタチだけなんだけど(笑)

温泉に入る前にひと汗かこうと、道後公園に散策に。ここは中世の城、湯築城址を公園にしたもの。伊予国守護河野氏の居城跡。豊臣秀吉の四国攻めの際に落城したそうだ。
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園内にはキレイな蓮が~!!!

続いて、一遍上人の生誕の地とされる宝厳寺へ。伊予の豪族河野道広の子とされる一遍は時宗の開祖。貴族のものとされた仏教を庶民に広めるために。念仏のみで全国を行脚したそうだ。本堂に安置される一遍上人立像は重要文化財に指定されている室町時代の彫刻の傑作だそうだ。拝観出来なかったけどね~。
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いよいよ後編では、道後温泉本館へ突入!

週末、所用を片付けて、そのまま足を延ばしたのは四国、松山。

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曇っていたけれど、しまなみ海道の「しまなみ」は絶景。瀬戸内生まれ、育ちのワタシには、心の和む光景。子どものころ、夏休みになると海水浴やキャンプに、この瀬戸内の島々へ向かったものだ。因島などでは、親戚の家でミカン狩りもよくしたなあ。

さて、松山市駅へ到着して、駅前からバスに乗って、早速向かったのは「愛媛県立とべ動物園」。旅先の
地方の動物園を訪れるのが、旅の何よりの楽しみだ。あいにくの雨の予報だったにも関わらず、松山に到着するころには晴れ間ものぞく。パートナーとふたり「日ごろの行いがいいんだなあ(笑)」と軽口を。

とべ動物園のアイドルは、なんてったって日本で初めての人工哺育のホッキョクグマ、ピース。飼育員さん方の愛情を受け、「てんかん」と闘いながらも元気の育つピースは十歳。赤ちゃんのころはテレビなどでよくその姿が放映されていたけれど、大きくなった今も、どことなく人懐っこい、無防備で無邪気な瞳は変わらず。しばらくプールで遊んでいたけれど、そのうち昼寝を始めたピース。
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ピースの後姿。あまりのカワイサに後ろから背中に抱きつきたくなった(笑)

とべ動物園、飼育員さんの努力と熱意が伝わってくるいい動物園でした。この話&写真はまたの機会に。

夕方までたっぷり動物園で撮影して、松山に戻り、まずはホテルにチェックイン。インターネットで探した簡素なビジネスホテルだけど、海外のウギャーな安宿に慣れているワタシには、こういうビジネスホテルでも十分すぎるくらい。格安の宿泊費で浮いた分をお土産や地元名物に。

ホテルに荷物を置いて、街歩きをした後、もうすっかり日も落ちた後の松山城へのぼってみた。
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夕闇に浮かぶ無人のリフト

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天守閣をはじめに21棟が重要文化財

登りの坂も下りの坂も、蒸し暑い夜には思いのほかキツかった~。

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松山といえば「いよてつ」。チンチン電車の独特の走行音が街に響く。

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散策のあと、夜ごはんを。瀬戸内料理の店、東雲に。じゃこてん、イカのから揚げ、そうめん、松山鮓、鯛飯…それも瀬戸内文化圏で育ったワタシには馴染みの味。山陽と四国、海を隔てても食の文化圏は同じなんだなあと、しみじみと思った。

ホテルに帰って、ワールドカップ観戦。旅は二日目へとつづく。


Bil'in Protests Against Israeli Blood Diamonds 25-6-2010.wmv

この冬のパレスチナ行きの目的のひとつに「ガザに入れるかもしれない」ガザ・フリーダムマーチへの参加があった。半年経って、ようやく振り返る気持ちになれたので、このときのことを書こうかな。

あまり詳細を書き連ねると、文句と不満しか出てこないので、なかなか書き方が難しい。このマーチの参加への直後は、あまりに苦々しい気持ちで、しばらくこの日々の写真を見るのも嫌だった。参加者、ひとりひとりの善意や熱意までをも疑うものではないけれど、それが「団体」とか「組織」になったときの運動の方向性の履き違えには、ほとほと嫌気がさした。世界中から集まった千数百人もの志が何ひとつ活かされることもなく、カイロで無駄になっている様子は、見るに耐えないものだった。

本当に「ガザの人のことを真剣に考えていた人」は、その中に、どれほどいたのだろう?少なくとも、カイロで合流した日本人の参加者からは、ほとんどその姿勢が見えなかった。

そんななかで、初日、高熱のなかを必死でエルサレムからカイロへ戻ったワタシに休む暇もなく、日本人の団体の通訳のような、道案内のような微妙な役回りを引き受けることになってしまい、求められてカイロ内のプレスまわりをすることになった。マーチ実行委員会のプレスリリースを手にして、そのマーチを取材して記事にしてもらおうということになった。

エジプトは、サダト大統領時代の「開放政策」によって、アメリカの援助漬け国家となった。それまでイスラエルと何度も戦火を交えたエジプトだが、それ以降アラブ中の総スカンをくらいながらも、実利を取りイスラエルと和平を結んだ。そして巨額の財政支援がアメリカより降り注いだ。

その後を継ぐムバラク政権。当然イスラエルのガザへの封鎖に表立った異を唱えることもなく、エジプトも背後のアメリカの意向を気にして、ガザの封鎖に一役買っている。

政府系のプレスは「申し訳ないが記事には出来ない」との返事。何か所もまわったが、すべての社で断られた。「ひとりの人間としては、ガザの境遇に胸を痛めています。しかし、この会社で記者をやっている以上、政府の意向には逆らえない」と漏らす記者も。上記の事情を考えれば無理もない。そして、非政府系といわれる某紙の事務所を訪ねた。

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その某紙の主幹とスタッフたち。熱心に話を聞いてくれ、「必ず記事にするよ」と。そして「ガザの兄弟たちのために力を合わせて頑張ろう!」と誓い合った。

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その某紙のスタッフカメラマン氏。社屋の庭でみんなで記念撮影をした。

成果のほとんどなかったプレスまわり。エジプトを半分祖国とも思うほどに愛するワタシには、イスラエルのガザ封鎖に力を貸すエジプトの役割には地団駄を踏みたくなる。そして、責められるべきは政府であるのに、まるでエジプト人全体が悪いかのように、エジプトの悪口をマーチの参加者から言われることに、段々我慢がならなくなってくる。

夕方、ナイル川に昨年のガザ侵攻で亡くなった人の数だけキャンドルを灯して川に浮かべようと事務局より呼びかけがあった。

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街角でエビをうるおじさん。エジプトの庶民だって、必死に生きている。

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夕暮れのナイル川

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川で遊んでいるカイロっこ

やっぱりワタシは、エジプトを愛している。

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今日もアフガニスタンの山の学校にまつわるお話。

スタッフとして心がけていることのひとつに、現地の子どもたちのことを考える…という当たり前のことだけでなく、日本の支援者の仲間の皆さんのご希望や思いを、出来るだけ現地の子どもたちに伝えたり、届けたり、そういう双方向のやり取りを大切にしたいと活動をしている。

もう、何年も前にあるひとりの会員の方が、たくさんの手編みの手袋を事務局に連絡して贈ってくださった。その方は、目がご不自由な方で、お手伝いをされている方と一緒に毛糸を選び、配色を考え、手袋を編んでくださった。

ひとつを編むのに、そうとう時間もかかるだろうし、視力があっても大変な作業。三年前の現地行きの際にもそのお気持ちを届けるべく、荷のなかに詰め込んで、山の学校で耳が不自由なサラーム君と各学年の成績優秀者にプレゼントをした。「この手袋はね、君たちのことを遠くから思う、日本の仲間が、君たちの寒い冬を思って編んでくれたものなんだよ。その人は目が不自由な人だけど、君たちのために何かが出来ることが嬉しいとおっしゃっているんだよ」と子どもたちに話した。

それから三年、その方が事務局に贈り続けてくださった手編みの手袋は何十双にもなった。そして「目が不自由な私はいつも人から助けてもらったり、何かをしてもらったりすることばかりでした。だからこそ、こうやって子どもたちのために何かを自分が出来ることが、本当に嬉しいです」とのお手紙が届いた。

人の気持ちを繋げること、そしてその役割を担える立場にいることは、本当にありがたく、幸せなことだと思う。アフガニスタン全体を変えることも、支えることも出来はしないけれど、小さなことでも、自分たちに出来ることを、自分たちが出会った人たちに、出会った人たちとともに、続けていければいいなあと思う。

今年は、その手編みの手袋を、新一年生全員にプレゼントした。その手袋にこめられた思いを、子どもたちはしっかりと受け止めながら頑張っている。

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