世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

2010年11月

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まずは、こちらの映像を観てほしい。

http://gu.com/p/2tkjm/tw

イスラエルのネゲブ砂漠のなかにある町、ベエルシェバから車で10分アル・アラキブというベドウィン(アラブ系の遊牧民、政府に無理やり定住政策をとらされてきた歴史がある)の村で、イスラエル政府による家屋破壊と立ち退き命令が執行され、三百人の住民が家を失った。このうち二百人ほどは子どもたちである。

イスラエルという国に、無理やり「国民」として組み込まれてきたアラブ系住民は「民主主義国家イスラエル」という建前のもと「対等な権利」を保証されているが、実態はそれとは程遠い差別国家だ。

イスラエルのユダヤ系国民には徴兵制がしかれるが、アラブ系住民には徴兵はない。イスラエルの本音で言えば「信用できないアラブ人を軍隊に入れてたまるか」という訳だ。もちろん、アラブ系住民だってイスラエル軍に入って、「占領地」パレスチナ自治区で自分の同胞に銃を向けるなんてまっぴらごめんだろうけど。

しかし、軍隊のなかでの人脈が、イスラエル国民としてその後の人生を決定づける…とまで言われている、その兵役の経験がないことは、イスラエル社会で生きていくことにおいては、有利にははたらかない。だから、わざわざ「志願兵」としてイスラエル軍に入るベドウィンや、シャバクなどイスラエルの情報部に入り、軍事行動などを助けるアラブ系住民も存在する。カネ、脅迫、甘言…もちろん、動機はひとによって様々だろうが。

イスラエルに組み込まれた「アラブ系住民」には、このような巧妙に分断されてきた歴史もある。グリーンラインのどちら側(イスラエルORパレスチナ)で生まれたかによって、同じアラブ人、同じパレスチナ人でも随分と生き方が違うように仕向けられてきたし、同じイスラエル国内の「アラブ系住民」であっても、ドルーズには兵役があり、ベドウィンは志願兵になることは可能で、それ以外のアラブ人(イスラエル国籍を持つパレスチナ人)には兵役も志願兵制もない…というふうに、分断政策をとられている。

「分断して統治せよ」帝国主義時代の常套句。

話を戻そう。イスラエルに押し付けられた「国籍」により、人びとは様々な反応をした。イスラエル社会のなかで出来るだけ同化して生きていくことを選ぶ人、逆にアラブ人、パレスチナ人としてのアイデンティティを強くして生きることを選ぶ人、様々だ。

でも、共通して言えるのは、どちらを選んでも、彼らは決して「イスラエルの守られるべき国民」とは成りえないこと。ここがユダヤ系住民が暮らす村であったなら、決してこんな風に、他に住む場所も用意されず、家ごと根こそぎブルドーザーで壊される、そして村ごと破壊されるなんて、あり得ないのだから。

これを「民族浄化」と呼ばずして、何と呼ぶ?これでもまだ、イスラエルを「民主主義国家」だと信じる?「国」が「国民」をホームレスにするようなこの国が「民主主義国家」なんてチャンチャラオカシイ。

写真は、東エルサレムで同じように家を奪われた人々

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いろんなところでパレスチナの話をしたりする機会が増えてきた。

質問とか感想とかで、必ず出てくるのが「イスラエルとパレスチナは二千年の宗教戦争だから…」という風な言葉。ふたこと目には「だからムズカシイ」と。

でも、本当にそうだろうか?

イスラエルが「ユダヤ教徒≒ユダヤ人のための国家づくり」を前提とした国なのだから、それを掲げる以上、そこには「宗教的な」動機がれっきとして存在するし、それゆえに「宗教的な」争いが皆無とは言わない。

でも、コムズカシゲに見える争いのすべての根源を「宗教」に求めるのは、いかがなものかと思う。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教その聖地を抱え、その聖地のもとで暮らしてきた人々には、共存の知恵があった。たとえどの教義を信じていようとも、他者を尊重して、ひとりの人間として尊敬しあう、そんな社会が間違いなく存在した。

それをぶち壊してしまったのは、大国のエゴと、周辺国の思惑と、ひとの命を大事にしない戦いの時代。

争いの根源は「宗教」ではなく、「宗教」や「信仰心」を利用する人間の心のあり方。

大好きだったベツレヘムの市場の八百屋さん、イーサさんの名前は、イエス・キリストのアラビア語読み。キリスト教徒もイスラム教徒も「イーサ」を尊敬している。

そうそう、イーサさんの八百屋には、夏休みの間、毎日のように娘さんが市場のお店に手伝いに来ていた。手伝いというよりは、大好きなお父さんのそばで過ごすことが好きだったからかもしれない。

夕方、お店を閉めて、この父子は仲良く肩を寄せ合って家路についていた。奥さんから頼まれたのか、帰り道のスーパーマーケットで食料品を買い込むイーサさんは、必ず娘さんに袋に入った豆(パレスチナ人の大好きなおやつ)を買ってあげていた。

パレスチナの人々が、ここに生まれた「パレスチナ人」だからという理由だけで、不条理にその権利が奪われることのない世の中にするために、何をしていけばいいのだろうね?

父子の写真を眺めながら、そんなことを考える。

 
どれだけ「またか…」とスル―されようとも、ワタシも彼らも、同じことを続けていくしかない。

 
歌詞つき発見。
 
益々胸にしみる。
 
この曲を主題歌として使ったハイサムの気持ちが分かる気がする。

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最近、ハイサムやマンゴーとチャットをすることが日課のようになっている。

昨夜は、数時間もマンゴーとチャットで色々語っていた。

ついに、彼がビリンを発つ日が決まったそうだ。

かつて「この故郷には俺の大事なものすべてがある。でも、そのすべてを分離壁や占領が台無しにしているんだ」と寂しそうに語ったマンゴー。

大事な故郷、家族、友、すべてがあるのに、夢見る自由や自分のポテンシャルを生かす機会がない。

分離壁によって、多くの外国人と出会い、外の世界を知った若者は、故郷に残す家族や友や思い出に後ろ髪を引かれながらも、故郷を後にする決意を固めた。

本の最後に、ワタシは書いた。「(マンゴーがビリンからいなくなることは)自分にとってピースの欠けたパズルのようであっても、それを口にすることは自分のエゴでしかない」と。

移住先に遊びに行く約束をした。「その場所は、日本からだとパレスチナへ行くよりはずっと行きやすいからきっと遊びに行くよ」と答えると嬉しそうだった。「マンゴーがその国で結婚式を挙げることになったら、家族代表でワタシが出席して見守るから」と言うと、「絶対だよ、約束だよ、インシャーアッラー」と懇願された。

ガールフレンドだけが頼りの見知らぬ国に、これからひとりで立ち向かう、彼の寂しさが伝わってきた。心細い思いもしているんだろうと思うと、少し胸が痛くなった。

「分離壁」がなかったら?「占領」がなかったら?「自由」があれば?…彼は、故郷を離れることを選んだだろうか?そんな問いは愚問だと分かってはいるけれど。

ワタシに出来るのは、マンゴーを遠くから支え、励まし、いざとなったらいつでも駆けつけられるような、そんな応援をすることくらい。それが「友であり、兄弟(姉と弟というよりは兄弟だな!)である」と慕ってくれるマンゴーに出来るすべて。

彼が発つ日、ビリンで家族やハイサムとともに、彼を見送ろうと決めた。

なぜかは分からないけれど、彼の人生で大きな大きな節目となるその日を、カメラで記録することが、ワタシの役割だと思った。

きっと、みんなにとって、辛い日になるに違いないけれど。

昨夜は、夢を見た。死体が転がりまくる荒野を、マンゴーと二人でカメラを抱えて歩いていた。今朝目が覚めて、苦笑した。

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