世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

2011年04月

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「権利」を制限されて生きていくこと、他の誰かの「自由」のために犠牲にされている人たちのこと、そういう視点でくくれば、福島も沖縄もパレスチナも…世界中の「困難」は、同じものなのだと強く思う。そこには、それぞれの事情も日常もあるけれど、抱える問題は同じなんだと思う。だからこそ、もう知らないふりも、見て見ぬふりも出来ないと思う。「あのとき、ああすればよかった…」なんて後悔は、もうたくさんだ。

昨日、ビリン村のハイサムの甥っ子、14歳のジャマールが、イスラエル軍兵士にゴム弾を撃たれて、ラマッラーの病院へ救急搬送されたと聞いた。撃たれたのはお腹と顔。命に別条はないと信じたいが、その後の容体などは確認できていない。

ジャマールは、ワタシが1月にビリンに辿り着いた直後、分離壁のそばで遊んでいたところを、パトロール中のイスラエル軍に捕まり、イスラエル軍の監視所に連れ込まれ、目隠しと手錠をされたまま4時間も拘束された。その4時間のあいだの暴力、脅しの言葉、14歳の少年が体験するには過酷すぎる体験を強要された。でも、これは何も特別なケースじゃなくて、多くのパレスチナ人の少年少女が味わっている苦難。

噂は、村のなかを疾風のように駆け抜ける。この日も朝起きて妹たちに「ミカ、ハイサムの甥のジャマールが拘束されて行方不明って言う話よ」と伝えられた。慌ててハイサムに電話をかけ、噂が本当であることを知り、急いでハイサムの家に出かけた。アブーラハマ家からは、壁も監視ポストもよく見渡せるので、ベランダから必死に様子を見てみたけれど、何も分からなかった。

数時間後、ジャマールが帰ってきた。ハイサムがジャマールに色々と早口で訊ねている。壁のそばで友達と一緒に遊んでいたら、みんな捕まったとのこと。拘束された4時間のあいだ、「誰が分離壁反対運動に深くかかわっているのか?」「デモで投石をしているのは誰なのか?」「おまえらも反対運動に関わろうとすると、今後どういう目に遭うか分からないぞ」などと、尋問、脅しを受けたという。

ジャマールは、ハイサムの一番上のお兄さんアーティフの長男。サッカーとPCでのチャット、歌やダンスも大好きで、とにかく元気で明るい、そして少し大人びた雰囲気の少年。病気の従弟のカルミーの面倒を本当によくみる優しいお兄ちゃんでもある。

そんなジャマールが、痛みに顔を歪めながら、手錠をかけられて真っ赤に腫れあがった両手を見せてくれた。写真を撮ったあと、すごく悔しい気持ちになり「ジャマール、痛かったね、怖かったね、よく頑張ったね」と思わず自分より背の高いジャマールの頭をなでた。ジャマールは笑いながら「よくあることだよ。絶対に負けないから」とワタシの真似をして「ミカ、よしよし」と頭をなで返してきた。

いま、ジャマールだけでなく、ビリン村では、いやパレスチナでは多くの少年たちが、このような目に遭わされている。少年たちが、自分たちの声で、自分たちの思いを…故郷を返せ、人間として当たり前に生きていける権利を返せ…と叫ぶことは、そんなに罪なことだろうか?誰に言わされているわけでもない。親たちや周りの大人たちの味わってきた苦難をみつめながら、自分で感じ取り、自分で考えて発している言葉であり、行動だ。

そして、その言葉とともに、石のつぶてを投げることは、そんなに罪なことだろうか?彼らには、最新式の兵器、武器に立ち向かうのに、死をも受け入れる覚悟と、その覚悟の末の声と、小さな石ころしかないというのに…。

ビリン村で、中心となる大人たちが掲げる「非暴力」での抵抗、それは尊いものだと思う。ショボイ武器で向かっていった挙句に何千人、何万人と殺されてきたパレスチナでは、武力をもって向かっていくことの意味さえも揺らいだ。その末に「非暴力闘争」を掲げ、そのことによって多くの世界中からの賛同と支援を得たのも事実だ。ワタシごとき部外者が、さまざまな考え方の人々にあれこれ意見する、口をはさむ立場にもない。

でも「非暴力で向かっても結局はいままでと同じように潰される。石ひとつ投げることが、そんなに暴力的か?」と問いかけてきた、ある友人の言葉が忘れられない。そして、そんな思いの少年たちは、「非暴力闘争」を掲げるビリン村のなかにもたくさんいる。

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写真は、かれこれ二十日以上も前のサクラ咲く井の頭自然文化園。以来、いただいた仕事をこなしたり、新しく始めた仕事をこなしたり、なんやかんやと忙しくなってしまい、ひとつのことにゆっくりと向き合うことが難しくなっている。

個人的に何かを頼まれたり、依頼されたり、そういうことのいくつかを果たせず、不義理をしてしまった方々には、この場を借りてお詫び申し上げます。

さて、まずは今日の夜が期限となる署名のお知らせ。ブログ友達のdatechibuさんのところで募っていらっしゃるのを見かけたあと、友達からもメールでまわってきたのでご紹介。(Mさん、メールを引用させて貰います。勝手にすみません)

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1)子どもたちを守るために

国は子どもたちの被曝上限値を平常時の年1ミリシーベルトが突然年20ミリシーベルトとしました。
が、小出裕章氏(京都大学原子炉実験所助教)によると、「年20ミリシーベルトを子どもが被曝すると、25人に1人は癌死する」といいます。そのまま容認していいはずはありません。その上限値引き上げの撤回を求める署名があります。同意してくださる方にはぜひご協力をお願いいたします。本日、4月30日夜11時が署名締切です。

<オンライン署名>
「緊急声明と要請:子どもに「年20ミリシーベルト」を強要する日本政府の非人道的な決定に抗議し、撤回を要求」
http://e-shift.org/?p=166 (署名締切:4月30日(土) 23:00)

<参考読み物>
「福島の子どもたちを助けて!」福島県の小学校教員の訴え
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201104271202043
内閣官房参与 抗議の辞任
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110430k0000m010073000c.html



2)STOP!浜岡原発

先日も同様の紙面署名をお願いしましたが、同意くださる方は別団体の(↓)の署名も是非よろしくお願いいたします。
http://stophamaokanuclearpp.com/?p=92

今日のシンポジウムでの話でも、背筋が凍る思いがしました。浜岡原発の惨事は起きるか起きないかではなく、もう「いつ起きるか」という時間の問題。明日起きる可能性も大いにあり。それが起きたら「今の福島原発トラブルは線香花火」といいます。その前に、停止させて十分に冷却を進めておかなければなりません。

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以上のふたつ、ご賛同くださる方は是非、ご署名を。どちらも簡単です。

誰にでも、目の前の「日常」や現実があるし、思いばかりが溢れても実際には出来ることは限られていて、そのアンバランスさに悔しい思いをしたり、地団駄を踏んだり…でも、それが人生。本当に少しでも、微力でも、自分の思いをカタチにするために、行動に移すこと、一歩を踏み出すこと、それが大切なんじゃないかと思う日々であります。

あ、完全に余談ですが、毎月5日発売の集英社の月刊誌「すばる」6月号で近況と新作のパレスチナの写真などをインタビュー記事としてお取り上げいただきました。機会があったらご覧ください。

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ワタシのパレスチナの家族、ビリン村のアブーラハマ家。パパのファトヒはなんと13人兄弟の長男だ。パパのパパ「おじいちゃん」とパパのママの間には、4人の子どもがいて、そのひとが亡くなった後、後妻として嫁いできたひととの間に9人の子どもがいる。パパと義理のお母さん(後妻さん)の年齢はあまり変わらなくて、パパの一番下の弟はまだ十代だ。いやはや複雑。何かと親戚が集まる機会が多いので、親戚の顔と名前を覚えるのも一苦労。

ワタシは、パパの「ムスメ」として扱われるので、「おじさん」達に繰り返し「俺とおまえの間柄はなんだ?」と言ってみるようにと要求される。「うーん、パパの弟なんだから…アフ―アブーイ―」とアラビア語で答える。おじさん、おばさんなんかは単純だから答えやすいんだけど、その妻、その息子、その妻の弟…などとなると、一回日本語でアタマを整理してからじゃないと答えられなくなる(笑)それでも、拙いアラビア語でそれを答えるのが面白いからなのか、親戚のみんなが同じ質問をしてくる。

でも、そうやって村のなかの親戚たちと、本当に血がつながっているわけでもないのに、特別に心が近くなるのが不思議だった。パパの兄弟の「おじさん」達は、みんなが「こいつは俺の姪なんだ」と他の人に紹介するのが可笑しかったし、「従兄弟」達も分離壁の反対デモで会うと、なにかと世話を焼いてくれる。村への滞在が長くなれば長くなるにつれ、血のつながらない「アブーラハマ家の娘」と受け入れられるのがありがたかった。本当に血がつながっていないのが不思議なくらいに、そこは自分の居場所のように感じていた。

アブーラハマ家の隣に住むのは、そんな「おじさん」のひとりアンムハーリッド(ハーリッド叔父)の一家。彼は自宅の一階で小規模な溶接業を営んでいて、いつも鉄製の火花から顔を守るマスクをかぶって、仕事にいそしんでいる。あまり愛想のいい人ではないし、隣の家だからときどき顔を合わせるのに二コリともしないし、最初は「ワタシがこの家にいるのが嫌なのかなあ、変なガイジンがいるのが気にくわないのかなあ、嫌われてるのかなあ…」と思っていた。

ところで、そのハーリッド叔父の子どもたちとは、最初の村の滞在のときから仲良くしていた。娘たちはワタシの「姉妹」と仲が良いし、小さな子どもたちは、いつも「甥っこ」ヤジードと遊んでいる。彼ら、この写真のムハンマド、アブダッラー、アヤはワタシの「従弟、従妹」にあたるわけだ。

ハーリッド叔父は、夜遅くまで、お気に入りのラジオを聞きながら、仕事をしている。その仕事場へ、これまた近所の「従兄弟」アシュラフに誘われて遊びに行った。「ちょっと散歩に行こうぜ、コーヒーのみに行こうよ」と誘われたのでついて行ったら、叔父さんの工場だった。ゲゲッ、叔父さん怖いし嫌だなあ…と内心思っていたが、いきなり夜中に訪ねられたハーリッド叔父は、ワタシがいることに一瞬驚きながらも、「まあ、入って座りなよ。いまコーヒー淹れてやるから」と迎えてくれた。それから数時間、アシュラフと叔父さんと話をしながら過ごした。叔父さんは、シャイなだけで、怖くもないし、ワタシのことを嫌っているわけでもないと、数時間一緒に過ごすうちにようやく分かった。

ハーリッド叔父の工場からは、奪われた村の土地のうえに建てられた入植地の灯りがキラキラと輝いていた。その灯りを見ながら、分離壁反対運動に表立って参加している訳でもなく、政治的な行動には距離を置いている叔父さんは「どうして俺たちがこんなに不自由な暮らしをしなくちゃいけないんだ?どうしてあそこで、あんなに自由を謳歌して生きていく人間のために、俺たちが犠牲にならなきゃならないんだ?」と煙草の煙を吐きながらつぶやいた。

叔父さんの工場には、クズ鉄、スクラップのようなものが集められている。そこは工場…といよりは、ゴミ置き場みたいな雰囲気。「パレスチナには新品の資材なんぞなかなか入らないし、入ってきたって、そもそも誰がそんな高価なものが買えるんだ?」と。「日本はいいよなあ。何もかもが手に入るんだよなあ。テクノロジーですべてを作り上げちまう国だろう?」と。

そんなハーリッド叔父が仕事に使う機械を指して「そういえば、うちの機械も日本製だ。長年使ってるけど壊れないいい製品だ」とひとこと。その機械を見に行ってみるとRyobiリョービの文字が…。驚くワタシ。だってリョービはうちの地元の会社だから…。「アンムハーリッド(ハーリッドおじさん)、この会社、ワタシが生まれた故郷の会社なんだよ」と言うと「そうなのか!そりゃ傑作だな!」と二コリ。

その夜から叔父さんは、ことあるごとに「お茶飲んでけ」と工場に誘ってくれるようになったことは言うまでもない。別れの日「はやくまた村に帰ってこいよな。子どもたちも待ってるから」と言ってくれた。

 
イスラエル領タイべ、そしてパレスチナ自治区トルカレムが舞台のこの映画。登場人物は、タイべに住むイスラエリ・アラブの男性。車を買うために20年間テルアビブのレストランで働いてきた。ようやく新車のスバルを買った翌日…盗まれた。
 
自治区内には人口の比率に対して圧倒的にカーディーラーが足りない。そりゃそうだ、何もかも自由にならないんだから。そこで「盗難車」が販売される。その拠点となるのがイスラエル側タイべ、パレスチナ側トルカレムという話。
 
この映画のなかでは、紛争地としてのパレスチナは描かれない。まるでファンタジーのように、ユダヤ系イスラエル人とアラブ系イスラエル人は友人だ。そしてスバルを追って、みんながトルカレムに集まる。それぞれの抱える背景がその道中から見えてくる。
 
明らかに不必要な登場人物とか、ちょっとファンタジックすぎる設定(…トルカレムって言ったらまさに分離壁に囲まれた、イスラエル軍戦車も侵攻してくる土地柄。いくら紛争は描かない映画でも、壁ひとつ現われないのは…映画なんだからいいんだけど)とか、いくつか???な点はあるものの、登場人物が魅力的で、あたたかくって、いい映画だった。
 
渋谷アップリンクでの上映は5月1日まで。
 

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福島の原発の付近で、泣く泣く家畜たちを置いて逃げざるを得なかった、またこれから避難せざるを得ない人たちのことを考えると、とてつもなく悲しい気持ちになる。そのような農家の方々は、文字通り動物たちを家族のように愛し、育ててきた。そして人間のために乳を出し、食用となってくれる家畜に最大限の敬意と愛情をかけてこられた方々、それがそういう農家の方々だ。

ニュースで、つながれたまま病気や飢えなどで弱ったり、死んだりした動物たち、そして生きるために野生化して必死で今日の命をつないでいる動物たち、そしてその動物たちを無念の思いで遠く離れた避難所から思いやるしかない農家の方たち。そのすべてがやるせない。「仕方がない」とグッとこらえる被災地の方々の姿から、私たちは何を学び、反省すべきか。

ワタシがお世話になっていたビリン村のアブーラハマ家でも、ヤギや鳥を多く飼育している。乳を出し、卵を産み、ときには食用にもなってくれる動物たち。その命を「いただく」ことを、この生活からはしみじみと学ぶ。パック詰めされた肉なんてない。肉を食べる日は、その頸動脈を神の名を唱えて掻き切り、血を抜き、羽根や皮をむしり、そして「いただく」。人間の生活というのは、なんと多くのものを犠牲にして成り立っているのだろうと、命を絶たれる際に苦しむ動物たちの姿をみると、しみじみと思う。そしてその命を大切に「いただく」生活がある。

農家の方々には、そのことの意味がよくよく分かっていらっしゃるからこそ、不本意に「命を奪う、粗末にする」殺処分などの処置が悔しいのだろう。金銭的な補償はもちろんのこと、その心の傷を、全国の消費者は受け止める…せめて、きちんと考えるべきなんじゃないかと思う。ただ漫然と消費するのではなく、命を「いただく」ことの意味を。

状況は違えども、自分たちの生活や権利を「制限」されながら、それでも懸命に動物たちの命と向き合おうとしている農家の方々は、朝早くから夜遅くまで家畜の世話を懸命に続けるパレスチナのパパの姿と重なる。

人間の暮らしに、日常に、この広い世界中で大差はないと思っている。だからこそ、いまの被災地の方々の姿は、ワタシの大好きなパレスチナの人々の姿に重なって見える。

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