








前日の夜、コサカさんが「朝起きれたら田老に行ってみる?車出すよ」と声をかけてくださったので、ミズキ、チサコさん、ホダちゃんを誘って田老地区へ。宮古の中心部と違って、見渡す限り瓦礫。津波の破壊力を改めて知る。大きな田老観光ホテルも、下の階はあとかたも残っていなくて鉄骨のみが辛うじて残っている状態。防潮堤も津波で破壊され、車も家も商店も、なにもかもが特色のない「瓦礫」となっていた。
そのひとつひとつに、色んな人の人生が関わっていた。すべて、誰かの大切なものだった。そう考えると、瓦礫は無機質な何も語らないコンクリートや建材や鉄のカタマリではなくなる。
宮古で出会ったたくさんの人と話しているとき、語られる言葉に耳を傾けているとき、何度も泣きそうになってしまうこともあった。でも、その方々の前でワタシが泣くのは筋違いな気がして、瞼を開いて必死に涙を乾かしながら、話を聞いた。
でも一度、たったひとりで作業をしているとき、自分の家が解体されていくのを力なく座り込んで呆然と眺めている人の姿を目にして、パワーショベルのひと振りで、何年、何十年もの人生の積み重ねがほんとうに数分で崩れていくのを見て、防塵マスクとめがねで顔が覆われているのをいいことに、滂沱の涙を流してしまった。
目の前のその人の姿が、イスラエル軍のブルドーザーに家をなぎ倒され、瓦礫の山の前で呆然としているパレスチナのひとの姿に重なった。「これからどうすればいいのか…」と涙にくれる人たちの姿に。
それでも、いつか人はまた歩きはじめる。生きている限り。だからこそ、生きていることを肯定的にとらえる余裕のない被災者の方々に、少しでも何かが出来ればいいなと、いつも思う。現在、宮古の友人から「ボランティアが全然いない」と言われると、今すぐ駆けつけたいような衝動に駆られ焦るけど、でも出来るときに、出来ることを、自分の範囲で続けていくしかないんだろうな。
勝手なことを言わせて貰えば、どんな人にも出来ることはきっとある。義援金はもちろんのこと、被害の少ない東北内陸部に滞在しながら、ほんの少しボランティアに参加するもよし、営業を再開した観光地におカネを落とすもよし、現地の受け入れ先をみつけて本格的にボランティアに汗を流すもよし。
大体、日本ではボランティアって言うと、ちょっと「特別」視され過ぎなんだと思う。専門技術や知識を要するものもあるけど、志さえあれば誰にだって出来ることもたくさんある。最低限のマナーとして、現地に迷惑をかけないように配慮しなければならない部分は色々あるけど、その言葉が独り歩きしすぎて、未経験者にはハードルが高すぎる風潮があるように見える。
現地では、実際にありとあらゆる作業に人手が必要で、高齢者の多い町や村ではなおさらだと思う(そして今回の被災地は過疎が進む町であり村が多い)。だから、少しでも興味をお持ちの多くの方に、参加して、自分が関わった町や村に関心を持ち続けて、実感を持って復興を見守り続ける方々が増えるといいなあと思う。遠い誰かのことじゃなく、自分の出会ったひとの大切な町や村のこととして。
多くの方々に、ためらっているその一歩を踏み出してほしいなあと思う。自分の人生に大切な人が増える、大切な町が増えるって、幸せなことだとワタシは感じているから。





