世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

2011年07月

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5月に引き続き二回目の訪問となった宮古では、今回多くの方々と再会を果たせた。前回、作業をしたお宅の方々、滞在していた教会の近隣の方々、そしてマエカワさんのように、ひょんなことから言葉を交わし、仲良くなった方々。とにかく「またね」と別れて二ヶ月、本当にまた会えたことが嬉しかった。

宮古に行く前、マエカワさんは煎餅を送ってくれていた。たった数枚の写真のお礼にと。(そのときの記事→http://blogs.yahoo.co.jp/mikairvmest/37003875.html

お礼に東京から電話をかけると、「宮古に来たら電話してけろ」と言われたので、さっそく作業の合間に電話をかけた。

マエカワさんは、驚きながらも「ミカちゃんがいる教会のすぐそばさいるよ」と意外な一言。よくよく聞いてみると、現在は大通地区近辺で作業が続いているそうだ。早速訪ねてみると、わざわざ作業の手を止めて、「よく来たなあ」と迎えてくれた。

ものすごい暑さの日で、マエカワさんも一緒にお仕事をされている皆さんも、そしてワタシも汗だくだった。朝から夕方まで作業を続けると、もうヨレヨレな見た目(笑)「宮古はあんまりこんなに暑いことはないんだが…」と、皆さん、日陰で休憩を取っていらした。

若手とび職の硬派なお兄さん方には、なんでこんなオンナが解体工事現場にニコニコ飛び込んでくるのか、あっけにとられた様子。でも、みんないい人たちで、ボランティアに来たと言うと、はにかみながら「本当に遠くからわざわざありがとうございます」と。

時間ができるたびに、マエカワさんの現場を訪ねた。最初、血相を変えて現場に近づかせないようにしていた(それが仕事だから当たり前だ、すみませんでした)警備員さんも、トビのお兄さん方も、おじさん方も、みんなが笑って(あきれて?)迎えてくれるようになった。

マエカワさんは、奥さんとワンちゃんとの家族写真を撮ってほしい…と。ワタシは是非とも!と、お互いにスケジュールを調整したが、祭りが入っていたり、マエカワさんには研修が入っていたり、奥さんがお仕事だったり、今回はうまく調整がつかなかった。

いよいよ帰りの日、マエカワさんから電話があり、三日間の研修を終えて帰ってきたばかりなのに「教会まで行くから。でも恥ずかしくて中には入れないから、外に出ておいて」と。すると、マエカワさんは、イカせんべいやいろんなせんべいが入った箱をふたつも、「また今度な」と言いながら、車のなかから渡してくれた。「また会えるのを楽しみにしてっから」と、それだけ言うと「じゃあ」と窓からずっと手だけ出して振りながら、車をスタートさせた。

しばらく離れたところの交差点で止まったマエカワさんの車からは、まだ黄色いシャツからのびた手が、ずっとずっと振られていた。

ずっと宮古で見守り続けたかったけど、次の旅に出てきます。

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ワタシが宮古に辿り着くと、ボランティアセンターには、アメリカ人のアリシア、デイブさん、ヘルムさん、イタリア人のアンドレアがいた。

もともと、エジプト留学時代やパレスチナでの生活でも、外国人に囲まれていることが多いので、そういう多国籍な人間の集う場が大好きなワタシ、この宮古でもそれを味わえるとは!

写真左のヘルムさんは、元々ショウイチさんという名前を持っていらっしゃった日系アメリカ人。4歳まで日本で育ったそうだ。4歳で、外交官であるドイツ人の父親アメリカ人の母親のカップルに引き取られ、それ以降アメリカで育った。だから、日本語はかすかに覚えていて、相手の言っていることはなんとなく分かるそうだ。ただ「自分は全然しゃべれない!」と。

でも、宮古では英語の苦手なボランティアも少なくなかったので、ヘルムさんは、自分の知っている単語を駆使して、一生懸命日本語で話そうとしてくれていた。時間がかかっても、英語で言っちゃった方が、誰かに訳せてもらえても、あきらめずに一生懸命日本語で話そうとしていた。

「自分のルーツとも言える日本で、今回ひどい震災が起こり、何かをせずにいられない」と、アメリカからわざわざ海を越えてボランティアに来た。

そして、アリシア。彼女は元々4年間盛岡で英語の先生をしていた。英会話学校ノ○の講師だったアリシアは、赴任地に「大都会か田舎かどちらを希望するか?」と聞かれて「田舎」と答えたそうだ。そして全国のノ○がある都市や町のうちで、もっとも田舎に近かったのが盛岡。「盛岡は全然田舎じゃないよ」とアリシア。「第二の故郷」と言い切るほどに、盛岡を好きになったそうだ。(カイロが第二の故郷だと思っているワタシにはよく分かる!)

盛岡での英会話講師をやめて、アメリカに帰ってロースクールに通っている。国際弁護士になるのが彼女の夢。そんなさなかに震災が起きた。「第二の故郷が大変な目に遭っている。何かをしなければ」と、アリシアも岩手に戻ってきた。友達の友達から紹介されたのが、この宮古のボランティアセンターだった。

アリシアは、一ヶ月以上宮古に滞在しながら、週に二回盛岡に通って、英会話の先生をして当面の生活費を稼いでいる。宮古と盛岡は二時間もかかるので、その生活はしんどいと思う。ハードな作業でも、弱音も吐かずに、頑張っている。強い人だなあと思う。

そして、写真右のアンドレア。彼は北京在住のクライマー。去年日本に旅行に来ていた。その旅の間に、日本のことが大好きになったそうだ。その日本で震災が起きて、彼もまた「日本のために何かをしたい」と、方々をあたって、クライマーつながりで宮古にやってきたそうだ。

アンドレアは、日本語が話せるわけでもない。ボランティアセンターに、そうそう都合よく英語ができる人が居るとも限らない。それでも、彼は躊躇もなくボランティアにやってきた。

たまたま、同じ時期にアリシアがいたので、ミーティングの際には、アリシアが要点をアンドレアに訳して説明していた。旅ですら、言葉ができないと不自由なのに、ましてや作業となると、細部まで分かっていなければ、事故にもつながりかねない。それを分かっていて、彼は日本にやってきた。

七夕の願いに、アンドレアは「また戻ってこれますように」と書いた。宮古の人たちが大好きだ、と。

彼らを見ていると、本当に人種とか、国籍とか、言葉や文化の違いとか、どうでもいいことだと感じる。海を越えて、はるばるやって来てくれた仲間に「ありがとう」。いつか、またみんなで宮古で会おうね。

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宮古での二日目、7月6日、前日に引き続いてYさん宅での壁はがし、床掃除作業が続く。Yさん宅と、前回お世話になったスガワラさん宅はすぐなので、作業の休憩時間や前後にスガワラさんに会いに行く。ワタシが帰ったあとも、順調にスガワラさん宅での作業は引き継がれ、「だいぶ片付いたよ」とのこと。

この日の夜は、この夏、各地の仮設住宅などでちょっとした夜祭のような「焼きそば&たこ焼き食べよう会」のために用意された鉄板に火を入れるため、ボランティアの晩御飯がお好み焼きになった。大阪出身のセンター長モモさんが店長で大阪焼き、広島出身のワタシが副店長で広島焼きを焼くことになった。

普段、お世話になっている近隣の方々もお招きして、汗だくでお好み焼きを焼いていった。都合が悪くご参加いただけない方々には、モモさんが軽トラで配達してまわる。3月の震災直後にスタートしたこのYMCA宮古ボランティアセンター、5月に来た時よりも、さらに地域の方々と深くつながっているんだなと感じた。それは、歴代のボランティアの皆さんが作業を通して培ってきたものでもあり、センター長のモモさんやYMCAのスタッフの方々が、丁寧に培ってこられたものでもある。

地域の方々に受け入れられ、信頼され、一緒に笑顔で何かができるって、本当に素晴らしいことだ。「おいしい!」と食べてくれるみんなの笑顔に、暑さも疲れも吹っ飛んだ夜。

この鉄板が、この先、各地で多くの笑顔を生むことになる。鉄板も焼きそばもたこ焼きもお好み焼きも、それはツールにしか過ぎない。それらを使って、ひとに何ができるのか、どんな会話を生むのか、そういうボランティアもありなんだなあ。

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安い夜行バスでほとんど眠れず盛岡に着き、5月に宮古を去る際に一日だけ一緒だったボランティア仲間のタマちゃんが50日のボランティアを終えて盛岡周辺の観光を観光をしていたので、朝ごはんを一緒に食べて、宮古行きのバスに乗った。

宮古は平成の大合併でかなり広くなっているので、盛岡を越えたらすぐに宮古市。延々と二時間山のなかをバスは走る。「宮古は広いなあ」ホントに。

でも、それぞれの地区の人たちに「宮古の人間」というアイデンティティはないらしく、ほんの十分ほどしか離れていないところに住む人でも(もちろん住民票上は宮古市民)、町中に行くときは「宮古さ行ってくる」と言うほどだそうだ。こんな多摩のハズレに住んでても「東京に住んでいる」と思っている、東京在住者の感覚からいうと、面白いなあ。

宮古に着くと、太陽光線がギラギラだった。お世話になる教会に辿り着いて、前回お世話になった方々に挨拶をし、昼食づくりを手伝っていると、みんなが午前の作業から帰ってきた。

イタリア人、アメリカ人三人…インターナショナルな顔ぶれに驚く。でも、そういう雰囲気こそ、むしろシックリくるから不思議だ。

午後から、早速作業に参加した。Yさん宅の床下のヘドロ掻きと天井はがし、壁はがし。津波に襲われた一階部分は壊滅的で、二階部分にお戻りになって暮らしていらっしゃるそうだ。「一階の改修費用だけでも650万円はかかると言われている」とYさん。少しでも、その費用を抑えるため、また少しでも大工さんの仕事を減らして工期を短くするため、ボランティアの出番となった。

前回は、ヘドロ掻き、側溝の掃除等々は多かったが、天井をはがす、壁をはがすという作業には参加をしたことがなかった。町中では、解体も確かに進んでいる。元の家に戻ることを決められた方々が、改修に向けて動きだされているということだろうか。

「こんなこと素人にできるのかなあ?」初日にワタシはそう思った。だいたい、高所恐怖症。床板が外されて、その枠の上を歩くだけでもコワイのに。そのうえに足場をつくって、脚立にのぼって、床や天井をはがすなんて…。

作業の数々も、習うより慣れろ。はがされた天井や石膏ボードを黙々と片付けながら、先輩ボランティアの作業をみつめ、汗だくになって初日の作業が終了。

あまりの暑さにアタマがボーっとする。文字通り、銭湯で汗を流すことが心のオアシス。みんなでわいわいと夕食を囲みながら、一日目の夜が過ぎて行った。

以下、尊敬する大先輩の古居みずえさんからのメールを転載

●映画『ぼくたちは見た』公開記念

音楽と映像のイベント  7月24日(日)開催!



「アラブの春の行方」

~パレスチナと子どもたちの未来を探る~



『ぼくたちは見た-ガザ・サムニ家の子どもたち-』の公開を記念して、音楽と映像のイベントを開催します。

古居みずえ監督の前作『ガーダ パレスチナの詩』から、新作『ぼくたちは見たーガザ・サムニ家の子ども

たち―』までの道のり、民主化に向かうアラブと、パレスチナの子どもたちの今と未来についてゲストが語ります。



第一部では、古居監督の6年ぶりの新作はどのようにして作られたのか、『ぼくたちは見た』でも取り上げ

られるガザ侵攻以降のパレスチナについて、また現在アラブ社会に広がる民主化を求める動きの中で、

パレスチナやその地に住む子どもたちの状況はどのように変わっていくのかを、岡真理さん、森沢典子さん、

古居みずえ監督に伺います。

第二部では、映画の音楽を担当したヤスミン植月千春さんに、アラブの伝統楽器・カーヌーンの演奏を

披露頂き、公開を控える『ぼくたちは見た』の世界を一足先にお届けいたします。



日時:7月24日(日) 開場13:30 開演14:00 (終演予定16:00)

会場:明治大学駿河台キャンパスリバティタワー11F 1113教室

    (東京都千代田区神田駿河台1-1 御茶ノ水駅徒歩3分)

資料代:1,000円



登壇者:古居みずえ(「ぼくたちは見た」監督)、岡真理(京都大学教授)

森沢典子(「パレスチナが見たい」著者)、ヤスミン植月千春(音楽)、他

司会: 野中章弘(ジャーナリスト)



共催:アジアプレス・インターナショナル、現代史研究会

協力:古居みずえドキュメンタリー映画支援の会、横浜YMCA対人地雷をなくす会

お問い合わせ先:whatwesawmovie@gmail.com 

03-3354-6274(宣伝:ブラウニー)

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古居みずえ監督最新作



「ぼくたちは見た-ガザ・サムニ家の子どもたち-」



8月6日(土)よりユーロスペースにてモーニングショー(AM10:45より1回上映)



封鎖されたまち、 封じこめられない真実

300人以上の子どもが犠牲になったパレスチナ・ガザ地区への攻撃

子どもたちの目線から戦争を描いたドキュメンタリー

公開中トークイベント開催決定!



詳細は公式サイト・ツイッターをご覧下さい。

「ぼくたちは見た」公式サイト http://whatwesaw.jp/  

 公式ツイッター @Whatwesaw_movie



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古居HP http://huruim.com

映画HP http://whatwesaw.jp

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