世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

2011年11月

昨夜はタハリール広場で、カイロ在住のパレスチナ人の友人ラーエドと待ち合わせてタハリール広場で過ごす。

普段はシッタオクトーバーという、カイロから少し西の砂漠へと入っていった新興の町で過ごしている彼。「タハリールなんて、2月にミカと一緒に来て以来だよ。普段は全然こっちに来ないもんな」と、二人でタハリール広場のデモを眺めながら、機会があればそこにいる人に話を聞く。

ラーエドのおじさんは、26年間イスラエルの刑務所に入れられていて、このたびの大掛かりなハマスによる囚人解放交渉により、刑務所を出てガザにいるそうだ。「でも、おじさんに会いに俺がガザに行くなんて不可能だけどね」と、おじさんのイブラヒムから送られてきた写真を見せてくれた。

夜も深まり、デモ隊と「政府に金で雇われた」デモつぶしとの間で大乱闘。投石が始まり、割ったガラス瓶での乱闘が始まり、騒然となる。流血者も増え、すぐそばにまで石が飛んでき始めたので、ラーエドと「もういいか」とその場を離れる。

広場のすぐそばのナイル川沿いでは、川を眺めながら人々がゆったりとお茶を飲み、水タバコをふかす。船の上では、まだ十代の若者が踊り狂う。「同じ通りの両側で、一方は血を流し、他方は踊り狂う…これがいまのエジプトなんだよなあ」とラーエド。

彼は今度の一月か、試験の結果次第では六月に卒業してパレスチナに帰る。「もうカイロには来ないだろうなあ」という言葉から、パレスチナ人が異国で、たとえ同じような言葉を話す兄弟国とはいえ、暮らしていくことは、ワタシには想像もつかない苦労があったんだろうなあと思う。ラーエドは昨日も、あちこちで聞かれるたびに「シリア人」「ヨルダン人」と名乗り、パレスチナ人だと話す相手に明かすことはなかった。

「早くエルサレムに帰って、薬局を開きたい。イスラエルでの許可証を取るのがまた大変だから、そう簡単には開けないだろうけど」。ラーエドの薬局を、いつか撮影できるといいな。

かつて住んでいたモハンデシーンに行き、ちょっと値のはるレストランでご飯を食べた。しばらく前に別れた彼女とモハンデシーンに来たことがあり、色々と思い出したようだった。相手の子はイラク人だったそうだ。「彼女に結婚してエルサレムに一緒に来てほしい」と言ったけど、「エルサレムは無理」と言われたそうだ。

イラク人女性がイスラエル領で生きていくのも、それは大変なことだろう。「お互いにすごく好きだったけど、どうにもならないもんな」と、ラーエドは辛そうにつぶやいた。国籍とか国とか、それによって人生の壁にぶつかるパレスチナ人の姿を多く見てきた。ラーエドになんの慰めの言葉もかけられなかった。

夜中になって、広場の騒乱状態は少し落ち着いたようだった。ドアまで送り届けてくれたラーエドと、今度彼の住むシッタオクトーバーに遊びに行く約束をして、別れた。

今朝無事にカイロ到着。去年の革命のさなかには、入国審査が少し厳しかったと聞いたが、全然入国目的も何にも聞かれず。カメラなどをチェックされることもなく、あっさり入国。

明け方のカイロは本当に美しくて、うっとりしながら、中心部へ。

いつも、カイロの兄とも言える十年来の友達が経営しているゲストハウスにお世話になるが、そこはタハリール広場のすぐ近く。到着してみて、意外と平穏なことに驚いた。カイロの人々も、当たり前だけど、普通に日常を送っている。

今までは選挙なんて意味がないから行ったこともなかった…と話す友人も、昨日投票を済ませたそうだ。投票所の熱気はすごいらしい。

サッカーの話しかしていなかったエジプト人が、いまや口を開けば政治の話…と友人。自分の考えを表明できるって、基本的な人間の欲求だ。それができるようになっただけでも、エジプトは変わった。

これから、ボチボチみんなに連絡を取って、それぞれの話を聞いてみたいと思っている。百聞は一見にしかず。

カイロに来て見てよかった!

今回チケットを取るとき、比較的フライトが楽なエジプト航空や大韓航空を探したけれど、どちらもカイロ便が運休になっていた。エジプト航空は今年の革命以来、日本からの便が消えた。そこで、今年アタマのの帰り、革命でフライトが消えたエジプト航空に代わってワタシを連れて帰ってくれたタイ航空に、今回再び乗ることにした。

ところが、チケットを取った直後から、バンコクは洪水騒ぎ…。バンコクの方々の苦労を思えば屁でもないが結構ヒヤヒヤした。

なんとか国際空港は大丈夫そうと安堵すると、今度はカイロでデモ再燃。ワタシは「戦場カメラマン」なんかにゃ決してなれないへっぽこカメラマンなので、危ないこと、怖いとこは出来れば避けたい。でも、興味あるモノゴトを自分の目で確かめたい、耳で聞きたい、写しとりたいとも思う。とくにエジプトやパレスチナは、大切な友達の身に起きてることだから。

根性ナシだし、ビビりだし、およそ世間で思われてるような「報道カメラマン」とは程遠い。でも、自分は自分らしく。それを言い訳にしちゃいけないけど。

駅まで向かって、スーツケースを忘れたことに気付いた(笑)50リッターのバックパック、カメラバッグ、手荷物だけで歩いてた。それでも十分デカイ荷物。冬は荷物がかさ張るからイヤだ。

探検家で辺境紀行作家の高野秀行さんが、著書で「トラブルほど後でネタに使えるからいい」と書いていらっしゃる。そんな風にドーンと構えて、何事も芸の肥やしに出来るような肝になりたいっす。

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日付が変わった今日、いよいよバンコク経由でカイロに向かう。

友達が、子どもの頃、元気のないときには必ず眺めていたという、ちょっと変わった小さな万華鏡をカルミーにくれた。目の前のひとの顔までもが万華鏡に映し出される。「カルミーに、これでパパやママを映し出してのぞいてみてって伝えて」と、カンパとともに、大切な宝物を渡してくれた。

温かくて、泣きそうになった。

たくさんのひとの思いを届けるため、自分は頑張って行かなきゃならないんだなあと思う。日本のみんなの思い、エジプトやパレスチナのみんなの思い。

正直に言えば、投げ出したいときも、たくさんある。いや、投げ出したいときだらけ。弱音だって吐きたくなる。挫けそうにもなる。

でも、誰に頼まれたわけでもない、自分が決めたこと。

だから、また重い荷物を抱えて、家を出る。自分の布団と、大切な家族に恋い焦がれながら。

去年は、ハムディの出発を見送った。ハムディが、大切な故郷を後にしてまで手に入れたかったものは…。

ドイツのビザが手に入った日、ハムディは大喜びだった。その隣で、ママがずっと泣いていた。

ハムディの出発の日、雨の降る寒い明け方、雨にうたれながら、ハムディがいなくなったあとも、ママは道端でハムディの名前を呼びながら泣き続けた。辛いときだった。

ハムディは、ドイツに行っても、一日たりとも故郷を、家族を忘れた日はない。毎日毎日、フェイスブック上で故郷や家族への思慕をつづり続けている。

いつか、ハムディが自由に故郷に帰れる日が来るといい。そのためにも、占領を終わらせたい。

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今年一年間、労大出版センター「まなぶ」の表紙グラビアを担当させていただきました。尊敬する沖縄の彫刻家、金城実さんの彫刻作品を撮影した写真が一年間の表紙を飾ってきました。

その今年最後の12月号には、パレスチナを去った青年ハムディの姿を追うことで見えた占領の実態をルポとして書きあげました。

そろそろ発行されるころです。宜しければお手にとってご覧ください。

http://www3.plala.or.jp/rdsyupan/manabu/manabu.html

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パレスチナ、ビリン村に暮らす、白血病と闘う4歳のカルミーのための治療費支援カンパを、2009年より集め続けています。今年も、多くの方々が賛同し、ご支援をくださったことに、この場を借りて、心よりお礼を申し上げます。

東急電鉄時代の後輩SとH、宮古のボランティアでお世話になったKさん、大学時代の写真部の仲間AちゃんとM、「アフガニスタン山の学校支援の会」の仲間Mさん、地元で写真展をおこなった際にお寄せ下さったSさん、Kさん、大阪のMさん、ブログ友達のKさん、Yさん(おふたりとも本名のイニシャルです!気づいてもらえるかな?)、各地の写真展で作品やクラフトを買うことでカンパをして下さった皆様、カンパ箱に入れてくださった皆様…名前を挙げきることができませんが、本当にありがとうございました。

このたびも、総額千ドルを届けられることになりました。

ワタシには、大きなことはできないし、カルミーに根本的な治療を施すような支援もできません。悔しいけれど、それはワタシひとりの力の及ぶ範囲ではありません。でも、できるだけ多くの時間を、一日でも長く、カルミーと家族が笑って過ごせるように、ほんの少し力を貸すことはできると思っています。皆さんのお力も借りて。

あとは、カルミーの生命力を信じて、できる限りのことを、彼の家族とともに、粘り強く続けていくしかありません。

引き続き、宜しくお願いいたします。

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