世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

2012年02月

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といっても、12月25日、ジェニン難民キャンプのアワード家では、キリスト教徒ではないので、特に何もない一日だった。たまたま、チキンバーベキューが好きな長男のカマールが、鶏肉を買ってきたので、家のなかで炭火でチキンを串焼きにして食べた。

チキンは小さく切って、スパイスをつけて(少し日本のインド料理屋で食べるタンドリーチキンに似た味つけ)、レモン汁を振りかけて、串に刺して焼いていく。

アワード家では、三週間の滞在のあいだに、このチキンバーベキューを二回食べた。その他の日は、肉料理は少なかった気がする。コフタ(羊肉のミンチと香草を混ぜて焼いたもの)が挟み込まれたパン、砂ずりの煮物がそれぞれ一回でたくらいかな。

朝ごはんは、圧倒的に食べない日が多かった。目が覚めてから、砂糖たっぷりのアラビックコーヒーを飲んで、それでおしまい。昼過ぎに、朝昼兼用のご飯を食べる日が多かった。

晩ご飯どきになると、二階からアブー・カマール(父ちゃん)の兄一家の子どもたちが降りてくることも多かった。マハは「なんでごはんどきに限って降りてくるのよ…」と、ときどき陰で愚痴ることもあったけれど。アブー・カマールのお兄さんのアラファトも、長いあいだ無職で、生活は苦しいようだ。

難民キャンプでは、足りないものを融通し合って、みんなが助け合いながら生きていた。それが、苦しい生活のなかで、生きていく知恵なんだなあと、いつも感じていた。

日本の生活と比べると、足りないものが多い生活だけど、それでも、あのキャンプでの生活が懐かしく、アワード家に帰りたいなと、いつも思う。

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もうすぐ年に一度のうちの会のアフガニスタンへの公式訪問。でも残念ながら、今年は行けそうにない。

アクバルに会いたかった、マリナに会いたかった、子どもたちにも、ヤシン先生の一家にも、たくさん会いたいひとがいるけれど、仕方がないものは仕方がない。

毎年、訪問団がカブールでお世話になっている家の門番のじーちゃん。

「来年は写真持ってくるねー」と約束したけれど、仕方がないったら、仕方がない。

その憂さ晴らしに(?!)ってわけでもないけれど、三年前からずっと欲しかったカメラを買った。

うわーを!

でも忙しくて、試し撮りにも行けない…。

早くカメラを持って、なにかを撮りに出かけたい。

でも、それがアフガニスタンだったら、最高だったのになあ…。

 
説明は不要だよね…しっかりと観てほしいです、この現実を

昨日、エルサレムのアル・アクサーモスクのイスラエルによる「占領」に反対するデモにおいて、イスラエル軍兵士は投石に対して銃撃で応酬。
 
25歳のパレスチナ人の青年Talat Ramiaさんが死亡。

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2000年にヘブロンに行った際に出会ったジュース屋のおじさん。

彼は、第二次インティファーダが始まってから長いあいだ、店を開けることも屋台を出すことも、すべての営業活動が許されなかった旧市街で、その時期を乗り切り、再び同じ場所で営業を始めた。

2009年、約9年ぶりにパレスチナを訪れて、旧市街のあまりの荒廃ぶりに驚いた。かつては活気のあった石畳の商店街も、多くは営業を許されず、新市街に移転した。

「これでも、ひとが戻ってきた方なんだよ。再び営業が許された直後、2、3年前はもっとガラガラだったから」あるひとが、教えてくれた。

そのおじさんに、旧市街を歩いていて出会ったとき、どこかでみた人だな…と、かすかに思った。ハッキリとではなく。おじさんは、とても物静かなひとで、必要なこと以外はほとんど話さない。

オレンジジュースを注文しながら、撮らせてもらおうとした。

「以前にももここに来たことがあるでしょう?」

おじさんは、そう静かに尋ねてきた。おじさんは、ワタシのことを覚えていてくれたのだった。

(そのときのことはコチラ)
http://blogs.yahoo.co.jp/mikairvmest/32771090.html

そして、2009年冬、2010年、2011年と毎年のようにパレスチナに行くようになっても、なかなかヘブロンに行く機会がなかったり、ヘブロンに行っても、おじさんに会えなかったりした。

そして、今回、ようやく再々会を果たすことができた。

おじさんは、オレンジを、よっつもいつつも輪切りにして、力を振り絞って、ジュースを絞る。

ひっそりと、街の片隅で、懸命にそして正直に、一杯百円ほどのジュースを売って、生きぬいてきたおじさんの姿に、生きててくれてありがとう、同じ場所に居てくれてありがとうと心でつぶやく。

おじさんの静かなはにかんだ微笑みを見ていると、なぜだか、根掘り葉掘りおじさんの人生の歴史を尋ねることが憚られる。おじさんの前に立つと、自分が「立場」を言い訳に、ずんずんひとのプライバシーに踏み込んでいることが、恥ずかしい気持ちになる。

根本的に、写真家、ジャーナリストって図々しく無神経な生業だと思う。それが仕事なんだと分かっていても、どうしても聞けないこと、踏み込めないことがある。

そう考えると、ああ自分はこんな生業に向いていないんだなあと思う。

一歩、踏み込む勇気や根性が足りないから。

そんな訳で、おじさんの人生については、何も知らない。

多分、次回は、名前くらいは聞いて来れると思う。

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