世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

2012年09月

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大間の「あさこはうす」を訪問して約二か月、「あさこはうす」を守る厚子さんと一緒に上関原発と闘う祝島に行ってきました。

岩国に着くと、岩国在住で上関原発の建設工事阻止のためにカヤックで行動した「虹のカヤック隊」のケンちゃんが車で迎えてくださり、オスプレイを押し付けられている岩国基地の見学をして、室津の港から船で祝島へ。

早速地元の漁師さん方が船を出してくださり、上関原発予定地、工事の進む田ノ浦へ上陸。早速中電から「ここを離れろ」という警告の放送が。

海は、限りなく美しい。その海を汚せば、もう漁は出来ない。「きれいな海さえあればずーっと暮らしていける。この海を残すのがわしらの努め」と島の方々は口々に言う。大間のあさこさんとまったく同じ言葉。

島では、30年間も週に一度の原発反対デモを続けてきた。月曜日の夕方港に行くと「げんぱつはんた~い、エイエイオ~」と、ゆったりと、でも力強く島のおじちゃん、おばちゃんたちが声を上げる。

島の人々は、明るく、みんな仲良く、よそ者を笑顔で迎え入れてくれる。このひとたちのおかげで、ワタシの故郷の瀬戸内海は原発から守られてきた。

ひとの絆を壊し、分断してきた原発は、島の暮らしとは一番不釣り合いなもの。都会の人間が豊かで便利な暮らしを追い求める中で、地方に、過疎の地に、むりやり札びらで押し付けられてきた原発という構造。

「豊かな海に原発はいらない」。その言葉に深く深く肯く島での日々。

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ある日、難民キャンプからジェニンの町に散歩に出かけた。難民キャンプと町の中心部は歩いて15分ほど。町に行くとありとあらゆるものが売っていて、ああ、こんなに大きな町だったかなあといまさらながらに感じる。難民キャンプから見ると別世界だ。

ダブカ(伝統舞踊)のCDを買いたくて一軒の店を外からのぞいていると、扉が開いて「どうぞ。探しているものがあるなら気軽に言って」と声をかけられる。それがCD、DVDソフトやコンピュータと付属品などを扱う店のムハンマドだった。

中に入ってみるとたくさんのソフトが置いてある。ほとんどは海賊版のDVD。パレスチナで人気なのはアクションもの。

「ダブカの音楽を探しているんだけど」というと、「あんまり置いてないなあ」と言いながら何枚かを選んで渡してくれた。そのなかの一枚を買おうと思い「これいくら?」と聞くと、「あげるよ」と笑う。「なんで?お金払うよ。もらうわけにはいかないよ」と返すと「いいよ。こんなところまで来てくれる外国人なんて珍しいもん。ジェニンに来てくれてありがとう。俺のこともジェニンのこともずっと覚えていてくれればそれでいい」とムハンマドは笑う。これ以上、なにを言っても受け取ってもらえそうにない。お礼を言ってCDをもらった。

「そうだ、じゃあ、CDをあげる代わりにお店の写真を撮ってくれる?」というので、ムハンマドとお店の写真を撮った。カメラマンだということは伝えてあった。

ムハンマドと世間話などを続けるうちに2002年の話になった。「あの当時、俺はちょうど大学生だったんだ。アブディース(東エルサレム)のアルクドゥス大学の学生で向こうで暮らしてたんだ。第二次インティファーダ以降、頻繁に道路や検問所が封鎖されるようになって、ほとんどジェニンには帰れなくなってたんだ。そんななかでイスラエル軍によるジェニンへの侵攻が起きた。俺の家は難民キャンプじゃなくてジェニンの町の中なんだけど、それでも気が気じゃなかった。キャンプには友達だってたくさんいるし、町がやられないとも限らない。ようやく家に連絡をつけることができて、『なんとかしてそっちに帰るよ』と親に告げると、『絶対に帰ってくるな』と止められた。でも心配でたまらず、数日後に封鎖が緩んだすきを狙って帰ったんだ。幸い町の中のうちの実家にも家族にも被害はなかったけど、あのときの不安と心細さは忘れられない。だから、大学を卒業してジェニンに戻ったんだ。家族のそばにいられるように」。

ムハンマドから色々な話を聞いていたかったが、お店にお客さんも来たのでおいとまする。「ありがとう」ともう一度お礼を言うと、満面の笑みで手を振ってくれた。

たった数十分の偶然の出会い。でもなんか、わすれがたいひと。

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パレスチナ、ビリン村の分離壁との闘いと村の日常をアブーラハマ一家とその周りの人々、ジェニン難民キャンプのアワード一家を主人公に据えて構成する写真展「パレスチナに生きる」を下記の通り神戸、元町のフェアトレードショップone village one earthで開催します。

日時:9月21日(金)~30日(日) 11:00~20:00

場所:one village one earth
   神戸市中央区下山手通3-4-10 小林ビル2F
   JR元町駅より徒歩5分

問い合わせ:078-332-6262

http://1village1earth.com

※写真展は入場無料

なお、9月23日(日)14時から16時には展示写真等の背景を語るお話し会(スライドトーク)とビリン村のドキュメンタリー映画の上映会(Life On Wheels ハイサム・カティーブ監督 日本語字幕付き)を開催。

※このお話し会に限り参加費500円を頂戴します

みなさまのお越しをお待ちしております。

転載、拡散、ツイ―ト等大歓迎。いつもありがとうございます。

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今日は久しぶりにパレスチナの話を。

ちょうど、特に発表するアテがあるわけでもないのに、暇をみつけては、せっせと原稿を書いている。「パレスチナ・そこにある日常」のその後。いつか発表できるといい。

いま、ちょうどオウダの結婚式の前の日まで原稿書きが済んだ。これから、このオウダの結婚のことを書くところ。

この日は、金曜日で昼間はデモの日だった。クリスマスが近かったためサンタクロースに扮したムハンマドやアブダッラーがベルを鳴らしながら、分離壁反対をアピールしていた。

その直後、超高速催涙弾が水平に発射された。それは、ちょうどワタシから数メートルしか離れていないところををかすめていき、ヒエーッ、怖いーと思った瞬間に、岩陰に隠れていたハイサムに大声で怒鳴られた。「ミカ、なにやってんだ。危ない、こっちに来て隠れろ!」と。

この高速催涙弾で、ハミースは頭を割られ、バーセムは胸を撃たれて殺された。催涙ガスの噴射なんかが目的じゃなくそれ自体が殺傷能力を持つアルミ製のキャニスター。

本当に、この場に居続ける限り、生と死は紙一重にすぎなくて、毎回無事に帰ってこれているのは運のみによってであって。こんなにも死を意識させられ、身近に感じたのは、初めてのことだった。

そんな日の夜、結婚式があるのがこのパレスチナの現実であり、日常。

ここのところ、この日結婚するオウダの姿をデモで見かけなくなっていた。昨年、同じ大学の同級生の彼女と婚約したオウダ。その同じ頃、オウダは「投石をした罪」をかぶせられ夜中に侵入してきたイスラエル軍兵士に「逮捕」された。

オウダは決して石なんて投げていない。彼は、そんなタイプではない。大学で経営学を学び、サッカーの学生選抜として国外に遠征したこともあるオウダ。いつも、カメラを片手に、デモを撮影しているのが常だった。

オウダと仲良くなったのは、そんなに昔のことではない。ハムディが村からいなくなってからだ。皮肉なことに、ハムディがいなくなった途端、急に村のなかで他のひとに出会い、ゆっくり話をし、仲良くなる機会が増えた。ハムディがいた頃は、ずーっとどこへ行くのもハムディと一緒だったから。

オウダと弟のアハマドは、ふたりともサッカーに熱中している。彼ら二人が一緒に過ごす彼らの部屋は、それぞれが好きなチームの好きな選手のポスターがべたべた貼ってある。よく、夕方、路地で近所の子たちとサッカーをしている二人の姿をみた。

村中に招待状が配られた。結婚披露宴は二日間にわたっておこなわれる。一日目は、新築中の二世帯住宅の前の広場にステージをつくり、男性陣が集まって濃いコーヒーを飲みながら、夜中まで踊りが繰り広げられた。女性陣は、新築中の新居に張られたテントのなかで過ごしている。

男性の宴を、少し離れたところで見守っていると、オウダの叔父にあたるファッラーハに「ミカ、そんなところで何やってんだよ。早くこっちに入っておいでよ」と腕を引っ張られ、男性の宴の輪のなかに入れられた。女子禁制かと遠慮していたのだが。招待者である本人や親族がいいといえばいいらしい。

さんざんみんなで踊りまくって過ごした。普段運動不足のおじさんたちはゼーゼーいっている。

宴の最後に、オウダが所属するダブカ(パレスチナの伝統舞踊)のチームがお祝いの踊りを披露した。その輪に囲まれて踊るオウダは本当に幸せそうだった。あんなに笑ってるオウダの顔をみたのは、初めてだった。

末永くお幸せに。

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かつて、チェ・ゲバラは、自ら人民に手本を示すように、革命政府の激務の合間をぬって、せっせせっせと自発的にサトウキビ畑などで肉体労働に励んでいた。そういう写真が、いくつも残されている。新たに「祖国」となった国を思い、そこに生きる人々を思い、新たな国を作るために、ひとが嫌がることをいとわず、自ら進んでやり抜くこと、それをチェは自らの行動を持って示していた。

そんな、ゲバラのゆかりの地、カバーニャ要塞(かつての執務室があり、近くにかつてゲバラが暮らした邸宅がある)に行ったときのこと。ぼうぼうに生えた草を汗だくになって刈っているひとたちの集団に出会った。

オラ!(こんにちは)と声をかけながらも、彼らのことに、さして関心をもたなかった。きっと、カバーニャ要塞の職員たちが、やむにやまれず生え放題の草を刈っているのだろうと。

休憩していたおじさんが「日本人か?」と聞いてきた。「うん、日本人」と答えると、「そうか」とおじさんは答えた。すげー暑い日で(毎日暑かったけど)、作業しているみんなは汗だくだった。でも、みんな真剣な作業の合間に笑っている。その表情が気にとまった。みんなの働く姿を、草ぼうぼうの場所に下りて行って撮りはじめた。作業をしているみんなは「こんなとこ撮るの?」と、照れながら大笑いし始めた。

そのうちのひとりのおじさんに、「君もやってみるか?」とマチェテ(山刀)を渡された。マチェテはずっしり重くて、その形状のせいなのか、思うように刈れなかった。なんか、機械に頼りすぎた便利な暮らしをしている国代表の無能さを晒し出して、恥ずかしくなった。

マチェテを貸してくれたおじさんに話を聞いているうちに、「ベネズエラから二泊三日で労働ボランティアに来たんだ」と語ってくれた。驚くワタシに、もう何度もそうやって暇を見つけて来ていると教えてくれた。周りの人にたずねてみても、軍人さんだったり、会社員だったり…みんなが、自分の余暇に時間を見つけて、ボランティアで作業しているという。

なんか、すごいなー、尊いなーと思った。だって、ものすごい重労働なんだもん。それを、さらりと笑顔で、やってのけるひとたち。

この人たちがいる限り、キューバは大丈夫だと思った。ゲバラの精神は、ここに生きている、と。

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この写真は昨年撮ったカルミーの写真。毎年撮り続けていると、写真を並べてみて、年々成長している様子がよく分かる。カルミーはカルミーのペースで成長している。

先週、宮古に居るとき、ハイサムからメールがあった。「カルミーが毎日ミカに会いたがってる。いつミカは戻ってくるのって毎日のように聞いてくるんだ。時間があったらスカイプでカルミーと話してやって」と。

出先だったこと、集団生活だったこと、向こうがちょうどいい時間にはこちらが深夜なこと、忙しいこと…そんなつまらない理由から、カルミーとスカイプで話すことを先延ばしにしてしまっていた。

今日、イスラエル在住の友人からメールが来ていた。「ハイサムには絶対にミカには言うなって口止めされてるけど、カルミーがまた倒れた。エルサレムに入院している」と。

友人は、ハイサムに託されたお金を持って、カルミーが入院し、ハイサムの奥さんハウラが付き添う病院へ行った。ハウラは泣き続けていた。

白血病のカルミーは、普通のひとなら簡単に退治できるバイ菌や細菌への免疫力がない。日本のような国であれば、本来無菌室に入れていなければならないほど、菌に対する抵抗力がない。でも、ずっとカルミーを入院させていられる資金が、ハイサムにはない。

そして、ハイサムは検問所を越えて、エルサレムのカルミーを見舞うこともできない。自分の大切な息子なのに。たとえ危篤になっても、きっと越えられないだろう。奥さんのハウラだけが、それを許されている。「人道上の」理由から…。10歳になったカルミーのお兄ちゃんムハンマドも、見舞うことができない。

ハイサムは、ひとりになると、自分にはどうにもできないやりきれなさで、泣いてしまうと、話してくれたことがある。胸が張り裂けそうになる。

友人から「ベッドの上で、カルミーが、ミカに会いたいよと繰り返し言っていた。どうにかして来れない?」と言われた。

今すぐ行きたい。今すぐカルミーに会いたい。大丈夫だよって抱きしめたい。

でも、ワタシにもどうにもできない現実があって。もう断れない仕事がいくつも入っていたり、その仕事をこなさなきゃ航空券も買えないし、カルミーの治療費だって集められない。いまは、カルミーがいままでずっとそうやって病気と闘い、打ち克ってきたように、また回復してくれることを信じるしかない。

カルミーに会いたい。どうして、日本はパレスチナの隣じゃないんだろう。どうして、パレスチナに行くのにイスラエルの国境管理官に審査されなきゃいけないんだろう。

かつて、アフガニスタンの友アクバルが瀕死の重傷を負ったのに、ワタシには彼を助けにいくことも出来なかった。何度も何度もこういう思いを繰り返す。

でも、数年後、アクバルは引きずる足でこちらに向かって歩いてきながら「久しぶり」って、右手を差し出しながら笑ってくれた。

きっと、カルミーも「ミカ、会いたかったよ」と笑ってくれるに違いない。そう信じなきゃやってられない。どうかカルミーの病状がよくなりますように。カルミーを案ずる家族の涙が安堵の涙に変わりますように。

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