







理由としては、化学兵器使用を見逃しては沽券にかかわるとか、シリアの同盟国イランへのけん制とか、政府軍、反政府軍のいずれが下手人にせよその矛先がイスラエルに向かうのは困るので叩いておこうとか、軍需産業の活性化のためとか、いろいろとあるのだろうが、シリア人の命のためでは決してない。少なくとも、それが第一の理由では決してない。
日本での報道をみていても、原油の値上がりだの、集団的自衛権の問題が云々だの、そういう視点がまず挙げられて、そこに生きる人々へのまなざしというものに欠けている。きっと、現場の記者は、そういうまなざしなのだろうが、日本で報道、放映される段階では、その部分は見えにくくされている。
国益、もちろん大切でしょうよ。その意味で、戦争がこの世からなくならないことも不思議でもなんでもない。国益に限らず、自分たちの利益を追求すれば、必ず誰かの利益を損なうことになる。だからこそ、外交とか国連のような場が大切で、話し合いこそが大切なのに、現状は「強いもの勝ち」で分捕ったものを、国際会議で後付承認しているに過ぎない。
ワタシは、パレスチナの人々があれだけ見殺しにされたことなども踏まえて、もはや国連に調停者として何の期待もしていない。国連のさまざまな機関、UNRWAとかUNHCRの働きまでを否定するものでは決してないし、むしろそれらの機関にパレスチナやアフガニスタンなどで接する機会を得て、現地では大変重要な役割を担っていると思ってはいても、安全保障理事会、常任理事会などの役割や存在は、設立時の理想はともかくとして、疑問だらけ。
とはいえ、それに代わる国際機関がない以上、結局は拒否権を持つ五大国の意志のみが尊重される。五大国の「常識」や「良心」に期待して、すがるしかないなんて悲劇だ。
米仏やトルコ、サウジアラビア、UAEなどが諸手を挙げてほくそ笑みながらおこなおうとしている軍事介入に絶対反対だ。でも、化学兵器で一派市民を巻き添えに殺すような狂人たちの椅子取りゲームを放置することにも同じくらい絶対反対だ。
もう、十分すぎるほど後悔している。二年間、十万人も見殺しにしてきたのだ。声を上げる機会なんていくらでもあったはずなのに、あげなかった。大国や周辺国の政治家やその裏にいる利権屋、アサド政権の中枢、反政府軍のなかに潜り込む周辺国の手先、みんなクソ野郎だけれど、自分自身も大差ない。
命の重みを、この笑顔のひと達の命のことを、ないがしろにしてきたのは自分自身。そのことを自覚できず、反省せず、他人を罵る資格はない。
だから、自分自身に突きつけるために、今日も、この瞬間も失われようとしている、この彼らのまなざしを、目をそらさずみつめよう。









