世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

2013年08月

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英国下院が軍事介入反対決議をして、事実上、英は表立っては手を出すことが難しくなった。しかし、米仏はまだやる気だ。

理由としては、化学兵器使用を見逃しては沽券にかかわるとか、シリアの同盟国イランへのけん制とか、政府軍、反政府軍のいずれが下手人にせよその矛先がイスラエルに向かうのは困るので叩いておこうとか、軍需産業の活性化のためとか、いろいろとあるのだろうが、シリア人の命のためでは決してない。少なくとも、それが第一の理由では決してない。

日本での報道をみていても、原油の値上がりだの、集団的自衛権の問題が云々だの、そういう視点がまず挙げられて、そこに生きる人々へのまなざしというものに欠けている。きっと、現場の記者は、そういうまなざしなのだろうが、日本で報道、放映される段階では、その部分は見えにくくされている。

国益、もちろん大切でしょうよ。その意味で、戦争がこの世からなくならないことも不思議でもなんでもない。国益に限らず、自分たちの利益を追求すれば、必ず誰かの利益を損なうことになる。だからこそ、外交とか国連のような場が大切で、話し合いこそが大切なのに、現状は「強いもの勝ち」で分捕ったものを、国際会議で後付承認しているに過ぎない。

ワタシは、パレスチナの人々があれだけ見殺しにされたことなども踏まえて、もはや国連に調停者として何の期待もしていない。国連のさまざまな機関、UNRWAとかUNHCRの働きまでを否定するものでは決してないし、むしろそれらの機関にパレスチナやアフガニスタンなどで接する機会を得て、現地では大変重要な役割を担っていると思ってはいても、安全保障理事会、常任理事会などの役割や存在は、設立時の理想はともかくとして、疑問だらけ。

とはいえ、それに代わる国際機関がない以上、結局は拒否権を持つ五大国の意志のみが尊重される。五大国の「常識」や「良心」に期待して、すがるしかないなんて悲劇だ。

米仏やトルコ、サウジアラビア、UAEなどが諸手を挙げてほくそ笑みながらおこなおうとしている軍事介入に絶対反対だ。でも、化学兵器で一派市民を巻き添えに殺すような狂人たちの椅子取りゲームを放置することにも同じくらい絶対反対だ。

もう、十分すぎるほど後悔している。二年間、十万人も見殺しにしてきたのだ。声を上げる機会なんていくらでもあったはずなのに、あげなかった。大国や周辺国の政治家やその裏にいる利権屋、アサド政権の中枢、反政府軍のなかに潜り込む周辺国の手先、みんなクソ野郎だけれど、自分自身も大差ない。

命の重みを、この笑顔のひと達の命のことを、ないがしろにしてきたのは自分自身。そのことを自覚できず、反省せず、他人を罵る資格はない。

だから、自分自身に突きつけるために、今日も、この瞬間も失われようとしている、この彼らのまなざしを、目をそらさずみつめよう。

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もうこの二年間にシリアではすでに十万人も亡くなっている。

いまさら、何を言うことがあるんだと、いまさら、何を言うことを許されるんだと、自分をなじる。

十万人の命を、見殺しにしてきたのだ。

ワタシにとって、シリアは、たった一度…しかも空っぽな心で…一か月ほど旅したに「すぎない」国。深く知っているわけでも、いまでも連絡を取り続けている友達がいるわけでもない。

でも、それでも心に残っている人は、何人かいる。一番は、アレッポで本当にお世話になった宿のじーちゃんだ。毎晩毎晩、じーちゃんが食べる晩ご飯を「ほら、一緒に食おう」とご馳走してくれた優しいひと。痴漢に遭ってものすごく嫌な思いをして塞ぎ込んでいたときに、心配して、そいつにちょっとした仕返しをしてくれたひと。

あのときいくつだったのかは分からない。もう十年以上も前のことだから、アレッポがこんなにひどくなることを目にすることもなく、天に召されていたかもしれない。

むしろ、そうであってほしいとまで、思ってしまう。アレッポはもう廃墟のようだ。

どちらが神経ガスをばら撒いたのか分からない。どちらも、なのかもしれない。バッシャールも彼を支える政権の奴らもクソ野郎だが、反政府軍のなかで暗躍するアルカーイダ系の奴らも、それを裏で操る周辺国も、自分たちの利害のために軍事攻撃を加える英米仏などの政治家も、みんなクソ野郎だ。

そこには、シリアで生きる、必死に生きている、人々の命のことなんて、まるで顧みられていない。

いまワタシにできる、たったひとつのことは、なんの役にも立たないこと。彼らのひとつの命だって救えないのだ。なんて無力なんだろう。いやになっちゃう。

でも、そのたったひとつのことを。

あのとき出会った人々…もうすでに亡くなっているひともいるだろうし、いま必死に生き抜こうとしている人々もいるだろう…の笑顔を、みてもらうこと。

ワタシたちが、無力にも見殺しにした、見殺しにしようとしている人々の、命を実感するために。

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アフガニスタン「山の学校」を卒業したシュワイブはいま高校一年生。ワタシたちがこの学校の支援を始めたとき、ちょうど入学したてだったシュワイブも、もうこの春から高校生。月日が流れるのは早いものだ。彼は、小中の九年間、山の上から一時間かけて歩いて「山の学校」に通っていたが、いまは下の町の高校に通うため、さらに一時間半、合計二時間半ほど歩いて通っている。帰りにはそれ以上の時間がかかる。

2007年にも彼と彼のお父さんに家庭訪問をさせてもらって話を聞いたことがあった。「ほとんど現金収入がない暮らしのなかで、皆さんの支援がなかったら学用品を買うこともできず、子どもたちを全員学校へ行かせてやることもできなかった」とその当時話してくださったお父さん。長男のシュワイブが、さらに時間をかけて高校へ行くことに対してどう思っているのかと、改めてたずねてみた。

「私は学校へ行くこともできずに、字の読み書きも知らない。それで辛い思いをしたこともある。子どもたちにはそんな思いをさせたくないし、私は学校も出ていないから、ここで畑を耕しながら生きることしかできなかったけれど、子どもたちはなんでも自分の夢をかなえてほしい。そのためなら、全力でサポートしてあげたい」と答えてくださった。

高校生になったシュワイブには、具体的に将来の夢が見えてきていた。「高校を卒業して、大学にも行って、もっともっと勉強して建築技師になりたい」と。

アフガニスタンは、大学に入るのには、コンクールと呼ばれる統一試験を受けて、その成績によって希望の大学、希望の学部に入れるか否かが決まる。学費自体はかからないが、カブールや町の大学に行くには、下宿代や様々なお金がかかる。

「でも、大学に合格したらどんなことをしてでも息子の夢をかなえてやりますよ」とニッコリ笑うお父さん。本当に優秀な子ならば親戚の援助や、借金や、方法はみつかる、とのこと。

学校が遠くなった分、さすがに往復で4~5時間ほどの山道の登校で疲れているとシュワイブ。彼の暮らす集落は山の一番上の集落のひとつ。でも、そんなハンディに負ける子じゃない。

彼が夢を叶えるのを、見届けたいなと強く思う。

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金曜日はいつも冷や冷やしながら一日が過ぎゆくのを待つ。

ビリンで誰かが犠牲になっていないか、デモは無事に終わったか。それに加えていまではエジプトの金曜日を恐怖にも近い思いでみつめる。

大切なものを失って初めてわかる…ってことがあるけど、失ってもいないけれど、ワタシは今回エジプトという国が決して後戻りできない一歩を踏み出してしまうのを眺めながら、エジプトをどんなに好きだったか、思い知らされた。

浮かんでくるのは、友達との出会いとか、一緒に過ごした日々とか、そういうとりとめのないことばかり。でも、そういうことが自分にとってどれほど大切だったか思い知る。

2008年にゆっくり久しぶりにエジプトを旅して以降、2009年、2010年、2011年、2012年と毎年エジプトには行っているのに、いつもそれはパレスチナの「ついで」で、友達ともゆっくりじっくり話さず、昔のようにただただ意味もなく街歩きをするということもなく、駆け足で数人の友達と会い、スーフィの撮影、タハリール広場の撮影だけ済ませて帰るような付き合い方だった。

昔からの友達の多くをないがしろにして、訪ねてみようともせず、それは、「エジプトは変わらない。いつ行っても同じようにみんながいて、同じように迎えてくれる。またいつでも会える」そんな風に、タカをくくってしまっていたのかもしれない。

変わらないものなんてない、いつでも会えるなんて幻想だ。パレスチナやアフガニスタンで、散々それを思い知らされているはずなのに、どうしてそのことに気付かなかったのか。

軍部の暫定政権を支持するずっと昔からの友達に「同じエジプト人を平気で殺す政権なんて狂ってる。いつか自分がそういう目に遭わされる」と吠えて、友達を怒らせてしまった。彼だって、分かっている。それでも、エジプトで生きている彼は、自分にとって、家族の生活にとって、いま一番マシと思えることを選んだに過ぎない。でも、言わずにはいられなかった。もう、元には戻れない。

昨日は、カイロの郊外のヘルワンの駅の横に、何両もの戦車が配備されていた。ヘルワンはワタシが一番最初にエジプトに行ったとき、三週間ほどを過ごした思い出の町。そこで出会った二人の青年、アムルとレダと仲良くならなかったら、エジプトをここまで好きにはならなかっただろうし、留学までして第二の故郷になんてならなかっただろうと思う。

アムルとレダとは、2000年を最後に会っていない。ワタシが旅先で一番最初にひとさまの家に居候したのは、このアムルの家だったけれど、ママも弟のアラアも元気なのかどうなのか。二人と疎遠になってしまったのは、アムルの婚約者に「あなたもあなたの家族もミカを大切に、優先しすぎる。もう仲良くしないで」と言われたことがきっかけだった。

アムルは当然彼女に怒った。「ミカはずーっとうちの家族も同然で、娘のいないママにとって娘同然の存在。それを君にとやかく言われる筋合いはない」と。でも、ワタシはいたたまれなくなった。自分が彼女の立場だったら、きっと嫌だろうなと。

それから、少しずつアムルの一家を訪ねることを控えてしまった。そして同じころ、レダがヘルワンを離れて紅海沿いの町に出稼ぎに行くことが決まった。

当時は携帯電話やメールもいまほど普及していなかった。アムルもレダも貧しかったから、そんなものとは縁もなかった。いつの間にか、連絡が途絶えてしまった。

不義理をしたなと思う。ヘルワンの駅から、アムルの家は歩くと30分以上かかるけれど、いまでもその道順を覚えている。いつか訪ねようと思いながら、今日までときが過ぎてしまっている。

ヘルワンの戦車の銃身の先にいるのはアムルやレダかもしれないと思うと、たまらなくなった。他の友達なら、問えば安否がわかるけれど、彼らの安否は、いまのワタシには知るすべもない。

自分の尊厳を守るために命を懸ける…そのこと自体はとても尊いことだし、そこまでしなければ成し遂げられないことも、変えられないこともたくさんある。

でも、それでもみんなに生きていてほしいと願うのは、自分のつまらないエゴなのだろうか…。

写真は、行きつけのジュース屋のおっちゃん。行けば「ああ、また来たのか、元気か」と声をかけてくれる、でも名前を聞いたことはない、自分にとってそんな存在のひとがたくさんいることにも気づかされた。どうか、みんな無事でいて。

エジプトのこと、エジプト人の友のことをただひたすら考えながら、過ごす日々。

仕事もろくに手につかず、エジプトから流れてくるツイッターを追うばかり。

書きたいことは山ほどある。

でも考えをまとめて、長文はとても書けそうにない。

その瞬間、瞬間に思いついたことをツイッターで書き続けているので、よければそちらをご覧ください。
@mikairvmest

ワタシのいわゆる世俗派の友は、軍事政権に賛成していて、同胞団の排除を望んでいる。モルシ政権に反対して、批判することと、一般市民である反クーデターの人たちを無差別に虐殺することは全然違うと思う。

いま友の望みと、軍の利害が一致しているとしても、その先の段階で、友が望むことと、軍がやることが違ったとき、彼らは間違いなく友に銃口を向ける。

でもこんな安全な場所から彼にそんなことを言うのは、独りよがりな、思い上がりなのだろう。

そのことだけは、忘れないようにと、自分に言い聞かせる。

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