そもそもYと出会うことになったのは、彼の母校ナジャハ大学に見学に行ったことがきっかけだ。そこで、国際交流センターで学生たちの国際交流プログラムのコーディネーターをしていた日本人のOさんに出会って、帰国後もいろいろとやり取りを続けていた。
一昨年、そのOさんから連絡が来た。「うちの大学のあるパレスチナ人研究者が日本のT大学大学院へ留学することが決まったんだけど、日本での寮としばらく日本に慣れるまでの受け入れ先を探してもらえないだろうか?」と。
しばらく慣れるまでうちにいてもらいたいのはヤマヤマだったけれど、いかんせんうちはたった二部屋しかない狭いアパート暮らし。おまけに一部屋は完全に物置と化している。これでは、いくらなんでも快適な滞在を約束できないので、受け入れ先を探すことにした。そこで、知人の知人である千葉にお住いのある牧師先生が「昔パレスチナでものすごくお世話になったから、是非今回お役にたてれば光栄だ」と申し出てくださり、先生が探してくださった格安の神学校の寮と、日本に到着してからのしばらくの間の滞在を受け入れてくださることになった。
一旦、そうと決まれば、ワタシが大きな顔をしてあいだに入るよりも、Yと牧師先生とが直接やり取りを交わして、交流を深めてくださる方がいいと思い、そこでワタシは牧師先生にYのことをお任せした。
それから半年が過ぎ、Yが日本での生活に慣れてきたころ、ある学生団体が主催するパレスチナの講演会に登壇することになり、そこで初めてYにも牧師先生にもお目にかかることになった。
そして月日が流れ、Yがパレスチナの故郷のことを話すトークイベントにお邪魔したり、一緒に牧師先生のお宅で正月を過ごしたりした。その正月に、初めてじっくりとYの故郷が置かれている状況や、Yの家族が入植地や分離壁に土地を奪われてしまったことなどを聞いた。
今回、ちょっとした頼まれごとがあって、本当に些細な何でもない事なのに、Yはそのことをものすごく感謝してくれて、「どうしてもミカを晩ご飯にご招待したい」と誘ってくれ、数か月ぶりに会うことになった。
彼は、この一年半、文字通り寝る間も惜しんで研究に打ち込んでいる。普段は始発で寮を出発して終電で寮に帰って寝る日々だ。二年目の今でこそ、毎日家に帰れるようになったが、最初の一年目は平日はすべて研究所に泊まり込んで、日曜日だけ洗濯のために寮に帰る日々だったという。
「同じ留学生でも、ここまで勉強している留学生はいないと思う。僕は99パーセントを研究に充てて、残りの1パーセントだけ楽しむ時間に充てている。そこまでやらなきゃ、自分の目的は果たせない。僕は貧しい家で生まれ育ったし、お父さんは僕たち10人の子どもを食べさせることで精一杯だった。大学に行く余裕なんかなかったし、大学に行くために一年勉強して、一年中断してお金をつくって…ということを繰り返して、なんとか卒業した。パレスチナでは、残念ながら本当に必要なところにお金がまわる仕組みになんて全然なっていない。どんなに優秀でもコネがなければ、それに値する仕事もポストも得辛い。自分は成績トップで卒業したけれど、自分より成績が下だった同級生がコネでケンブリッジ大とかに留学していった。いまでこそ、そういうチャンスが舞い込んでくるようになってきたけど、ヨーロッパ、アメリカ、いろんな大学から研究者のポストのオファーがあるけれど、自分のためにじゃなくて、故郷のコミュニティーのために、パレスチナの人々のために自分の研究を役立てたいんだ。だから、ここで最先端の医療の研究をして、それをもとに、パレスチナで、本当に必要なひとのために、たとえその患者さんにお金もコネもなくても、その最先端の治療が行き渡るように、自分がなんとか役に立つようになりたい」とY。
ワタシは彼にカルミーのことを話した。親友の息子が、必要な治療がなかなか手に届かず、たった五歳で死んでいったことを。Yは自分のことのように悔しがり「政治のせいで、そんなくだらないことのせいで助けるべき命を助けられない、そういうことをなくしたいんだ。コネがあれば、たとえそれがただの風邪であろうとも最適な場所で、最高の治療や薬を受けることができる。でもお金もコネもなきゃ、いまのパレスチナでは見捨てられるだけなんだ。実は僕の妹もずっと病気なんだけど、彼女も必要な治療を受けることができていない。その悔しさが、僕の頑張りの源なんだ」。
Yは普段とても明るくてひょうきんでユーモアにあふれていて、常にみんなに笑顔を向けている。いままで会ったときは、いつだってそうだった。でも今日は、ふたりでそれを話しながら、彼は心のなかで滂沱の涙を流していることに気付いた。だからこそ、どんなに寂しくても、苦しくても、ときには辛くても、家族と遠く離れた異国で、高い志を保ち続けて、頑張り続けているのだと。
その覚悟を知ったとき、ワタシは自分の生き方、甘ったれた心、いろんなことがものすごく恥ずかしくなった。そして、異国で生きる一人の青年の肩にこれだけのものを背負わせていることが、耐えがたいことのように思えた。
別れる前の数分間は、お互いに何も言えなくなっていた。なにを口にしていいか分からず、ただ二人して唇をかんで電車に揺られた。話すことがなかったというのとは全然違う沈黙。でも、何も言わなくても、Yの思いは十分に通じた。苦しくても、やり抜くと彼の瞳は語っていた。
「ミカのやっていることを知って、日本にもこんなに自分たちのことを知ろうとしてくれて、好きになってくれて、伝えてくれようとしてくれている人がいるってことに勇気づけられたよ。ありがとう。今度の旅から帰ってきたら、いろいろと旅の話を聞かせてね。楽しみにしているから。お互いに、お互いの道を頑張って進んでいこう」と、ワタシが降りる駅に到着する直前、Yがそう声をかけてくれた。そして、大きなハグをして手を振った。
Yにとって、彼の夢をかなえることは、長い長い闘いになると思う。これから、あまりに大きなものと闘っていかなきゃならないのだろうと思う。一流の研究者、一流のドクターが彼の最終目標ではないから。その立場になって何を故郷の人々に還元できるのかが、彼の問うていることだから。
ずっと見守っていきたいと思う。なにひとつ出来やしないけど。でも、遠い異国で故郷のことを語り合える友として、この日本で見守っていきたいと思う。
一昨年、そのOさんから連絡が来た。「うちの大学のあるパレスチナ人研究者が日本のT大学大学院へ留学することが決まったんだけど、日本での寮としばらく日本に慣れるまでの受け入れ先を探してもらえないだろうか?」と。
しばらく慣れるまでうちにいてもらいたいのはヤマヤマだったけれど、いかんせんうちはたった二部屋しかない狭いアパート暮らし。おまけに一部屋は完全に物置と化している。これでは、いくらなんでも快適な滞在を約束できないので、受け入れ先を探すことにした。そこで、知人の知人である千葉にお住いのある牧師先生が「昔パレスチナでものすごくお世話になったから、是非今回お役にたてれば光栄だ」と申し出てくださり、先生が探してくださった格安の神学校の寮と、日本に到着してからのしばらくの間の滞在を受け入れてくださることになった。
一旦、そうと決まれば、ワタシが大きな顔をしてあいだに入るよりも、Yと牧師先生とが直接やり取りを交わして、交流を深めてくださる方がいいと思い、そこでワタシは牧師先生にYのことをお任せした。
それから半年が過ぎ、Yが日本での生活に慣れてきたころ、ある学生団体が主催するパレスチナの講演会に登壇することになり、そこで初めてYにも牧師先生にもお目にかかることになった。
そして月日が流れ、Yがパレスチナの故郷のことを話すトークイベントにお邪魔したり、一緒に牧師先生のお宅で正月を過ごしたりした。その正月に、初めてじっくりとYの故郷が置かれている状況や、Yの家族が入植地や分離壁に土地を奪われてしまったことなどを聞いた。
今回、ちょっとした頼まれごとがあって、本当に些細な何でもない事なのに、Yはそのことをものすごく感謝してくれて、「どうしてもミカを晩ご飯にご招待したい」と誘ってくれ、数か月ぶりに会うことになった。
彼は、この一年半、文字通り寝る間も惜しんで研究に打ち込んでいる。普段は始発で寮を出発して終電で寮に帰って寝る日々だ。二年目の今でこそ、毎日家に帰れるようになったが、最初の一年目は平日はすべて研究所に泊まり込んで、日曜日だけ洗濯のために寮に帰る日々だったという。
「同じ留学生でも、ここまで勉強している留学生はいないと思う。僕は99パーセントを研究に充てて、残りの1パーセントだけ楽しむ時間に充てている。そこまでやらなきゃ、自分の目的は果たせない。僕は貧しい家で生まれ育ったし、お父さんは僕たち10人の子どもを食べさせることで精一杯だった。大学に行く余裕なんかなかったし、大学に行くために一年勉強して、一年中断してお金をつくって…ということを繰り返して、なんとか卒業した。パレスチナでは、残念ながら本当に必要なところにお金がまわる仕組みになんて全然なっていない。どんなに優秀でもコネがなければ、それに値する仕事もポストも得辛い。自分は成績トップで卒業したけれど、自分より成績が下だった同級生がコネでケンブリッジ大とかに留学していった。いまでこそ、そういうチャンスが舞い込んでくるようになってきたけど、ヨーロッパ、アメリカ、いろんな大学から研究者のポストのオファーがあるけれど、自分のためにじゃなくて、故郷のコミュニティーのために、パレスチナの人々のために自分の研究を役立てたいんだ。だから、ここで最先端の医療の研究をして、それをもとに、パレスチナで、本当に必要なひとのために、たとえその患者さんにお金もコネもなくても、その最先端の治療が行き渡るように、自分がなんとか役に立つようになりたい」とY。
ワタシは彼にカルミーのことを話した。親友の息子が、必要な治療がなかなか手に届かず、たった五歳で死んでいったことを。Yは自分のことのように悔しがり「政治のせいで、そんなくだらないことのせいで助けるべき命を助けられない、そういうことをなくしたいんだ。コネがあれば、たとえそれがただの風邪であろうとも最適な場所で、最高の治療や薬を受けることができる。でもお金もコネもなきゃ、いまのパレスチナでは見捨てられるだけなんだ。実は僕の妹もずっと病気なんだけど、彼女も必要な治療を受けることができていない。その悔しさが、僕の頑張りの源なんだ」。
Yは普段とても明るくてひょうきんでユーモアにあふれていて、常にみんなに笑顔を向けている。いままで会ったときは、いつだってそうだった。でも今日は、ふたりでそれを話しながら、彼は心のなかで滂沱の涙を流していることに気付いた。だからこそ、どんなに寂しくても、苦しくても、ときには辛くても、家族と遠く離れた異国で、高い志を保ち続けて、頑張り続けているのだと。
その覚悟を知ったとき、ワタシは自分の生き方、甘ったれた心、いろんなことがものすごく恥ずかしくなった。そして、異国で生きる一人の青年の肩にこれだけのものを背負わせていることが、耐えがたいことのように思えた。
別れる前の数分間は、お互いに何も言えなくなっていた。なにを口にしていいか分からず、ただ二人して唇をかんで電車に揺られた。話すことがなかったというのとは全然違う沈黙。でも、何も言わなくても、Yの思いは十分に通じた。苦しくても、やり抜くと彼の瞳は語っていた。
「ミカのやっていることを知って、日本にもこんなに自分たちのことを知ろうとしてくれて、好きになってくれて、伝えてくれようとしてくれている人がいるってことに勇気づけられたよ。ありがとう。今度の旅から帰ってきたら、いろいろと旅の話を聞かせてね。楽しみにしているから。お互いに、お互いの道を頑張って進んでいこう」と、ワタシが降りる駅に到着する直前、Yがそう声をかけてくれた。そして、大きなハグをして手を振った。
Yにとって、彼の夢をかなえることは、長い長い闘いになると思う。これから、あまりに大きなものと闘っていかなきゃならないのだろうと思う。一流の研究者、一流のドクターが彼の最終目標ではないから。その立場になって何を故郷の人々に還元できるのかが、彼の問うていることだから。
ずっと見守っていきたいと思う。なにひとつ出来やしないけど。でも、遠い異国で故郷のことを語り合える友として、この日本で見守っていきたいと思う。
