
たったの三日間では、訪ねられる人も限られている。一応、前回と前々回の写真のすべてを持って行ったけれど、渡すことが出来たのは半分にも満たなかった。残念。会いたい人はたくさんいるけど、なかなか三日では難しい。
そんななか、いつもお訪ねしているふたつの仮設住宅をお訪ねした。
山のうえのこれらの仮設住宅は雪も深く、皆さん雪かきに追われていらっしゃった。なかなか若い世代の方々は仕事で忙しく、雪かきもお年をめした方々で頑張らざるを得ないとおっしゃる。「みんなが一緒にやる、出来ない人はひとこと『参加できなくてごめん、ありがとう』と言ってもらえれば気持ちよくできるのに」とため息。
その一方、仮設住宅の住民の集いなどに一切参加したくないというあるおばあちゃんを訪ねてみると、おばあちゃんの家の前は一切雪かきがなされていない。「道具も持ってねえし、どうせ雪が解けるまで外に出ねえからいーんだ」と最初頑なだったおばあちゃんも、「じゃあ、ちょっとだけやっていくよ」と声をかけると、嬉しそうに「そうやって気遣ってくれる人がいるってだけで嬉しいなあ、心強いなあ」と笑顔に。ただ、トラブルのもとになるので、「他の家の前で掻いた雪もすべてオラの家の前に捨てろ」と厳命される。雪ひとつでも、大変なんだなあ。
ばあちゃんにはボラセンで廃棄される予定だった軽めのスコップを渡す。ばあちゃんは、また「なんでおめえはいつも来る前に連絡をよこさねえのか。事前に分かってればもっといいものを用意できたのに」と言いながら鮭の切り身を大量にくれる。「いつも本当にありがとうな。誰かが訪ねてきてくれるってのは本当に嬉しいな。また来てくれな」とばあちゃん。
その足でそのまま集会室を訪ねてみると、いつもお目にかかっているおばあちゃんがたが迎えてくださる。話を聞いてみると、やはり、これからどうなるのかという見通しが一向に立たないことが重くのしかかり続けているという。「こんなに三年以上も仮設住宅で暮らすなんて思ってもみなかった。こうなるってわかっていたら、早く自分でアパートでも探せばよかったと思ってしまう。もう今となっては、ここまで待ったんだからもう少し待とうとか、いやもう待てないとか、日替わりで心が揺れる」と。
その場にいたもうひとりのおばあちゃんは「復興住宅に移ったって今度は家賃もかかる。津波が来るまでは自宅だったからそんなお金がかかることを想定していなかった。どこから家賃を捻出すればいいのか」と顔を曇らせる。
とある仮設住宅では、若手であるがゆえに以前は仮設住宅のリーダー格で、みんなを引っぱっていっていたある方が、すっかりみんなが集う場所にも顔を出さなくなったと聞く。ご本人をお訪ねしてみると、病気や失業や再開の見通しがたたない自営業のこの先のことや、いろんなことが重なって「以前ほど元気じゃない」とおっしゃる。「どうしたらいいんだろうね。もう少し年を取っていれば諦められるのかもしれない。もう少し若ければもっと動けるのかもしれない。でも私らの年代はちょうどそのどっちでもなくて、どうしたらいいのか。自宅とお店のあった跡地は嵩上げと防潮堤の建設が済まないと戻れない。区画整理のために土地も削られた。そうなるとお店を再開するには狭い。お店を再開しても、町に人が戻ってくるのかも分からない。もう待つのも限界。三年待ったけど、もう限界」と。
お話しを聞いていると、本当に何もできない自分の無力さが辛くなる。でも、すべてのひとから必ず「忘れずに訪ね続けてくれてありがとう」とお礼を言われる。何の役にも立たないことを自覚しつつも、それでも一生ここに通い続ける。この町とこの町に生き続ける人々の姿をみつめ続ける。
※写真は魚菜市場のシーフーズ須藤の「イケメン店長(本人談)」。












