
3年ほど前だったかな。あなたはワタシが訪ねても、以前のように大喜びしなかったし、ほとんどすべての自分の予定を投げ出してでもワタシと一緒にいようとしなかったし、別れの際に泣かれなくなったし、とうとう見送りにも来なくなった。
でも、愚かなワタシは、それをポジティブに受け取っていたんだ。あなたが「もとあった日常」に戻ろうとしている、戻った証なのだろうと。少し寂しかったけれど、これでいいんだと思った。所詮、ワタシはあなたのそばにずっといることなどできないのだから。
でも、いまならわかる。その頃が、ひとりぼっちで気分が沈み、様々なことに無関心になる、そんな病のスタートだったのだと。
約2年ぶりに再会したあなたは、病と老いと貧困と孤独のなかで、置き去りにされていた。
不自由な体では部屋を片付けることも、ゴミを捨てることもままならない。かろうじて週に2度ヘルパーさんが来てくれる範囲では、台所だけはなんとか最低限の整頓が保たれ、手で洗える範囲の下着などは洗ってもらっているようだが、普段過ごす居間には残飯と生ごみの山とそれにたかる虫が、万年床の布団は湿り、テーブルの上はゴミの山だった。ヘルパーさんもあなたに「ここは触らないで」と言われているのかもしれない。部屋もあなたからも以前とはまるで違う異臭がただよっていた。
あなたを普段から気にかけている方々に話を聞いて回った。「もうひとりで暮らせる状態ではない」「時間や日にちの区別がつかなくなっている」「要介護度をあげてもらってもっと適切なケアがされなければ暮らしていけない」と口々にみなさんはおっしゃった。
しかし、唯一の肉親をあの津波で喪ったあなたは、あなた自身が「大丈夫」とかたくなに言い続ける限り、誰にもそれ以上のことができない。あなたのそばで、あなたのことを一番気にかけてくれてきたひとが覚悟を決めて「後見人になる」と申し出たら、あなたはかたくなにそれを拒んだと聞いた。
もう、自分で買い物に行くことも、台所に立つことも難しいよね。以前は料理が得意だった。訪ねるたびにいろんな料理を作ってくれた。そんな写真がたくさんある。花のお世話が大好きだった。キレイなものが好きだった。でも、いまのあなたの家を彩り、飾るものはなにもない。台所の冷蔵庫に行くことすらも困難なのか、常温で出しっぱなしの豆腐がテーブルに置かれていた。「冷蔵庫に入れようか?」と聞くとあなたは「いいから」と硬い表情に変わった。
ゴミをみていると、食生活がいやでもみえてくる。すぐに食べられるもの、豆腐だけ、パンだけ、ビスケットだけ、バナナだけそんな日々が続くのだろう。ワタシが持って行った小さなパンを半分だけ食べ、大切そうにテーブルに置いた。翌日また半分食べるのだろう。
翌日、いやがるあなたの家を少しだけ掃除しようとした。硬い表情になったので、もうそれ以上は手を付けられず、残飯と生ごみだけ袋にまとめた。でも、ゴミの日に不自由な体でそれをどうやって出しに行くというのだ?元気なひとなら5分の作業も、あなたには30分もかかる作業になるだろう。
お金さえあれば、肉親や頼れるひとがいれば、病がなければ、老いていなければ…もう少し違っているのかもしれない。でも、あなたにはすべてが重くのしかかる。
できる限り一緒に過ごそうとした。でもあなたは「疲れた」とつぶやいて湿った布団にもぐりこんだ。数日前に転んでしまったそうで、痛みが強く動くのも辛そうだ。大きなテレビの音だけが響く部屋で、あなたは繭にくるまれた蚕のように、布団のなかで丸くなった。その背中に、涙があふれそうになった。
ワタシが出会ったあとの、あなたの背中はいつも寂しそうだった。どれだけ笑っていても、ひとりの部屋に帰る顔は曇った。何度も「泊まっていけば?」と言われ、帰れなくなって狭い部屋に無理やりふたりで寝た。明け方ワタシがはねのけた布団をなおしてくれていたことに気づいたとき、きっと喪ったお子さんにもそうしていたのだろうと思うと、涙があふれた。
津波注意報が出て、深夜にあなたを迎えに行ったときもそうだった。注意報が解除されたあとも、不安げなあなたの手を離せなくて、手を握って一緒に眠った。
ワタシからは絶対に聞けなかったあなたのお子さんのこと。昔のアルバムを引っ張り出して、「これが小学校のころ、これが高校生のころ」と写真を見せてくれた。ワタシはその白黒の写真を、カメラに収めた。どうしてなのかはわからないけれど。
街はさらに「復興」が進んでいた。どんどん進められる大型工事。分離壁のような高さの壁が防潮堤として海沿いに建てられている。復興道路も工事が進んでいた。東日本大震災の被災地の話も、すっかり巷の話題にのぼらなくなった。
でも、その陰には、あなたのような「復興」から完全に取り残され、置き去りにされ、「ひととしての尊厳を保てる暮らし」からは遠く隔てられたところに置かれているひとがいる。きっと、そういう方は少なくないのだろうと思う。
パレスチナの難民キャンプを思い出す。自分の力で切り開き、立ち上がっていけるひともいる。でも、どうすることもできないひともいる。声をあげることもできずに、いまの状態をどう変えていけばいいのかきっかけもつかめず、その方法がわからず、途方に暮れているひとがいる。
「じゃあ、また来るね」と丸くなった背中に声をかけると、あなたは「ありがとう」と、ワタシの手を握った。暖かくて、やわらかいあなたの手。あなたはそれ以上の言葉もなく、2度力をこめた。その手を離さなければならないことが、罪悪のように感じた。
あなたが心から笑える日が、穏やかで安らかな日々を得ることが、ワタシにとっては本当の「復興」だと思っていた7年間だった。それが、いかに甘い見通しだったかを思い知り、打ちのめされた。
あなたのことを気にかけている、あなたの街の方々に託すよりほかにない。情けないけれど、ワタシにはどうすることもできない。そのやるせなさとともに、あなたを、この街を、みつめつづけていく。ワタシの人生が続く限り。
写真は、あの日すべてを変えてしまったこの街の海。この街にずっと恵みをもたらしてくれる海でもある。
