世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

2018年11月

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「パレスチナねこ歩き!」、こんなどーでもいートピックを選べるのも、とりあえずガザへの空爆が止み「停戦」となったからこそだ。一昨日の晩は気が気じゃなくて眠れなかった。「おまえが寝ようが寝まいが、俺がどれだけ気にしようがしまいが、そんなこととはまったく無関係にやられるときはやられるし、停まるときはときは停まる」と自嘲気味に西岸の友がワタシに言う。本当にそのとおりだ。やりきれなさと、どうにもできない苛立ちは、「同じパレスチナ人」である彼の方が何百倍、何千倍も大きいだろう。

思いつくことをランダムに書きなぐることをお許しいただきたい。

昨晩「停戦」と聞いたとき、ほっとした気持ちが一番先に来たが、でも「オオカミ少年」の話を連想して冷ややかな気持ちになったことも確かだ。「停戦」を破ったのは誰か?戦争をしたいのは誰か?イスラエル軍の空爆とハマースのロケットをまるで「対称」のように扱い、報道されるのはなぜか?ガーディアン紙が報じたように、ガザに潜入したイスラエル軍の特殊部隊員の将校は「殺された(killed)」とされ、その作戦遂行を援護するための空爆か交戦で殺されたとみられるハマースの戦闘員は「死亡した(died)」と表現されるのはなぜ?

さもハマースの飛ばすロケット弾に「報復」のために空爆をしたようなニュアンスの報道が続いたが、その「非対称性」とともに、封鎖を続け、占領にも最低限の法の順守が必要なことすらないがしろにしたまま、破り続けているのは誰か?ガザの漁師さんたちはなぜ海に漁に出ているだけで殺されなければならないのか?非人道的な封鎖が続いているのはなぜ?そんなことがアタマをグルグルまわる。

以前、難民キャンプのかーちゃんが「イスラエル軍も政府首脳も言うまでもなくクソだけど、若者たちの命を使い捨てにする『武装組織』の幹部たちもクソだ」と言ったその言葉が忘れられない。そして、その母親の言葉に反発する息子の「ハマースのような抵抗組織こそが唯一残された希望」という言葉も、彼の幼なじみたちの死も。死ぬとわかっていて「武装組織」の戦闘員として死んでいったハムザのことはことさらに。

難民キャンプの若者たちの「希望のなさ」については、拙著にも綴った。冗談ばかり言って笑っていたハムザが、その裏ではどれだけ苦しんでいたのか、収監されている「弟」も、「武装組織」の戦闘員としてお尋ね者になり長く収監されている「弟」の親友もしかり。

やっぱり、やりきれないね。

でも、この「やりきれなさ」を綴り続けるしかないのだろうと思う。あまりに希望が見えなくて、正直に言えば「もうなにもかも忘れたい」「違う世界(?そんなものどこにある?)に行きたい」とも思う。その繰り返しばかりだ。

そんなことを考えながら、やっぱり彼らの苦しみに思いをはせながら、あえて能天気なパレスチナのネコの写真を選び出してみる。ワタシのアタマのなかも、この文章と写真のギャップも、グチャグチャだ。でもそれが偽らざる姿なのだから仕方ない。

「停戦」したからって、彼の地の苦境はなにも変わらない。必要なのは封鎖の解除、占領の終了。それが言いたいこと。

写真はすべて2013年の写真。いま、次の本の出版を目指して、パレスチナで撮った写真のすべてを見返している。本の詳細は、もう少しハッキリした段階でお知らせします。お楽しみに。

ねこと言えば、うちのシロは今日も元気です。

追記
現地の報道では、今回のそもそものコトの始まり、ガザに潜入して(殺されたハマースのコマンダーを拉致する計画だったとも)作戦遂行中に殺されたイ軍特殊部隊のコマンダーも怪我を負った隊員もドルーズの兵士とのこと。何重にも複雑な思いがする。

言うまでもなくアラビア語を母語とするドルーズには兵役があり、しばしば最前線でパレスチナ人と対峙させられる。兵役拒否すれば自分が投獄される。

なかには「ユダヤ系ではない」という視線、部隊内での差別を跳ね返すため、進んで先頭に立ちパレスチナ人弾圧を担う人もいるし、ドルーズに限らずベドウィンやクリスチャンの志願兵やボーダーポリス含め職業軍人になる人もいる。彼らはその弾圧の現場の先頭で、「同じアラブ系じゃないのか?」「裏切り者」と罵倒、憎悪を一身に浴びている、そんな様子も目にしたことがある。それを指して「近親憎悪」とある人は言った。

分断を強いている者は高笑い。複雑な思いが増す。

空爆だけが犠牲をもたらすのではない。社会、人びとの分断もまた深刻な「犠牲」。

再追記
やりきれなさが増すのは、ハマースの飛ばしたロケット弾で亡くなったひとりは、ヘブロン出身のパレスチナ人「出稼ぎ」労働者の男性とのこと。

たいていイスラエル南部には迎撃システムやシェルターが完備されていて、犠牲者は多くは出ない。報道によると、亡くなった男性が入れるシェルターがなかったよう。

まるで「使い捨て」のような「出稼ぎ」労働者のこの犠牲。本当にやりきれなさが増す。

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昨夜、エジプト留学時代に父と慕った大切なひとが亡くなった。一番辛いときに教えてくれたパパの息子ホクシャに心から感謝する。パパにとって、シングルファーザーとして育てていた三人の息子たちは特別な存在だった。パパがどれほどあなたたちを愛していたか…でも、心配なかったね。ちゃんと伝わっていた。あなたたちは、その大きな愛を、まっすぐに受け取って育ったね。

エジプトに留学していた2000年から2001年、スーフィダンスの撮影に夢中だった。週に二回通ううちにダンサーや演奏家の方々と仲良くなった。プライベートなお付き合いが始まった。そんななかでも、一番親しく、かわいがってくれたのがタブラ奏者のパパ、ハサンだった。

パパはエジプトで生きること、エジプトでアーティストとして生き抜くこと、大切なことをたくさん教えてくれた。「うちは息子が三人だから、ムスメができたみたいだ」と本当にかわいがってくれた。「日本人は魚が大好きだろう」と、パパの家があるショブラで魚パーティを開いてくれた。一番バカバカしくて、一番笑い転げた日だったので、魚パーティのことは深く印象に残っている。

冗談が好きなひとだった。どこまでが冗談で、どこからが本気なのかわからないひとだった。チャランポランなところもたくさんあったけど、芸に対しては厳しいひとだった。子どもたち三人は、パパにたくさん振り回されたかもしれないけれど、溢れる愛情はしっかり受け止めていた。「しょうがないなあ、父さんは」と言いながら、ため息交じりにパパのフォローにはいる長男ユーセフの姿が印象的だった。

パパは、新天地を求めた。「エジプトではアーティストがきちんと評価されない。もっと大きな世界を目指したい」と、オーストラリアに渡った。まだ幼かった三男のホクシャも大変だったと思うけれど、オーストラリアで彼はしっかりと成長した。パパの愛に包まれながら。

2002年にカイロで別れてから、ずっと音信不通になってしまっていたパパとワタシ。きっとオーストラリアで元気にやっているのだろうと思っていた。2014年、突然パパからメッセージが届いた。「この十年探し続けたぞ。オーストラリアで会う日本人、会う日本人みんなにミカを知らないかと訊ね続けたんだ。ようやくみつけたぞ」と。

きっかけはフェイスブックだった。ホクシャがパパに「これでミカを探そう」と言ってくれたそうだった。そこから、メッセージや電話の交換が始まった。

パパはワタシが夢を諦めなかったこと、パレスチナに通い続けていること、写真を撮り続けていること、本を出版したことをことさら喜んでくれた。「それでこそ俺のムスメだ!」と笑った。

「いつかオーストラリアにおいで」「いつか訪ねるね」そんな約束を繰り返しながら、とうとう果たせなかった。どうしてすぐに訪ねなかったのだろう。どうして後まわしにしてきたのだろう。どうして「クシャクシャのおじいさんとおばあさんになってからの再会もいいね」なんて悠長なことを考えたのだろう。どうして、こんなに早くパパが逝ってしまうことを想像できなかったのだろう。

どれだけ悔いても遅すぎる。悔いのないように全力で、思い立ったら即行動!がモットーなのに、ときどくこうやって取り返しのつかない悔いを重ねる。それがよりによってパパとの別れなんて。

でも、病気だったとホクシャから聞いた。だとしたら、もう苦しまなくて済むね。天国で安らかなときを迎えているね。

パパ、本当にありがとう。大きなひとでした。大切なひとでした。どれだけ離れていても。

別れのとき「ミカはロバが大好きだから、特注で作ってもらった」と木彫りのロバと、ロバのTシャツをプレゼントされた。木彫りのロバを握りしめると、もう遥かかなた昔のことなのに、そのときのパパの笑顔とぬくもりを思い出して涙が止まらなくなった。

どうか天国で安らかに。

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