世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

2019年11月

【緊急のカンパのお願い】
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匿名で可能です。
クレジットカード、デビットカードで可能です。

MCガザことイブラヒムが、先日おこなわれた「グレートリターンマーチ・国際連帯フェスティバル」のあと、ガザに戻ることもできず、直前に滞在していたチュニジアに戻ることもできず、行き先もなく、とりあえず彼の所持するパスポートで入国可能だったのがマレーシア。向かったマレーシアで、いま現在苦境に立たされています。

フェスのあいだ、また日本を離れる前、マレーシアに着いてからもずっと苦境が続いている彼のことを思うと、苦しくてなりません。でも、彼自身が、自分自身ですべてを公開して、自分自身で乗り越える準備をするまで、ワタシは見守ることしかできませんでした。だって、ワタシが無責任に発信することで、彼にどんな悪影響が及んでしまうのか、彼の人生をメチャクチャにしてしまうんじゃないかと、ただひたすら怖かったからです。

でも、近い、親しい友人には、聞いてもらっていました。「いつでも言って、お金出すよ」って言ってもらったり、一緒に悩んでもらったり、本当にありがとう。

ひとまず、もうすぐ彼の持つ観光ビザ(一ヶ月)が切れます。マレーシア滞在継続のために、学校へ入り、学生ビザを取得、そのために6000ドルのカンパを募るとのことです。

ガザに戻れない理由は、彼がラップにこめている批判や、彼のアーティストととしての活動を快く思わないひとたちがいて、活動が制限されるためです。

本人の連絡先も明記されているので、気になることは直接彼自身におたずねください。

もしよろしければ、リンク先でのクラウドファンディングにご協力をお願いいたします。

https://www.gofundme.com/f/finding-my-way-out-of-gaza

(11月30日追記)
本日イブラヒムから連絡があり、「まだ目標額の半分ではあるが、ある程度まとまった額が集まったので、大学への登録と学生ビザ申請のための手続きを開始する」とのことです。

「ずっと暗闇のなかで、行き先を見失っていた。自分の誇りを取り戻すためにサポートしてくださったすべてのみなさまに感謝します。本当にありがとう」とのことです。

まだ目標額の半分なので、引き続きよろしくお願いいたします。

金額、目標額の達成もさることながら、ひとりでも多くの方が、心を寄せ、彼のために行動を起こしてくださることこそが、本当に大切なことなのではないかと思います。

実際にワタシの周囲の友人知人のみなさま、そしてツイッターのフォロワーのみなさまが多くご協力をくださっていることに、私からも重ねて深く感謝申し上げます。ありがとうございます。

あと、ファンドレイズのために彼自身が立ち上げたキャンペーンの彼の訴え(英文)を訳してアップしなければとずっとこの三日間気になりながら手を付ける余裕がなかったのですが、先日イブラヒムが出演したフェスの大阪の実行委の戸田ひさよしさんが、ご自身のフェイスブックページでグーグルによる翻訳をあげていらっしゃって、言わんとすることは十分伝わる内容でしたので、ここに転載させていただきます。

======私は欲しい(I need:)==========
興味のある方は、私の問題に関する解決策を見つけるのを手伝ってくれる友達と共有してください
こんにちは
このGoFundMeのサポートに興味があると思いますが、

https://www.gofundme.com/f/finding-my-way-out-of-gaza…。

わずかな寄付でさえ、イブラヒム・グナイムが資金調達の目標を達成するのに役立ちます。
そして、寄付をすることができない場合、募金活動を共有してその言葉を広めることができれば素晴らしいと思います。

ご覧いただきありがとうございます!

私は、ガザ地区のラップパフォーマー、イブラヒムグナイムです。
ガザの困難な状況を作り出し、克服しようと長年努力した後、私は自分の街を離れることに決めました。
ラップパフォーマーおよび音楽プロデューサーとして、私は世界中の多くの音楽祭に参加しましたが、
ガザの包囲により多くの人々を奪われました。

2018年4月、私はカイロに着くまで、シナイ砂漠を通ってエジプトにガザから出ました。
それから私はチュニジアに行き、海外に定住し、私のキャリアを追求する最初の試みを始めました。
1年半の間、大学に入学したとしても、さまざまな方法で在留書類を取得することができませんでした。

しかし、その間、私はチュニジアのアーティストと多くの作品を制作し、チュニジアで大きな成功を収めました。
私は自分自身をサポートできるように昼も夜も働き、時々家族に助けを求めました。
私はチュニジアのパレスチナ大使館から多くの約束を受け取りました。
私は自由に滞在して旅行できるように、一時的な居住の証明を得るように求めていました。

私は日本での音楽ツアーのために、私の国のために歌う機会を得ました。
約1ヶ月前にチュニジアを日本に向けて出発しましたが、帰国できないことに懐疑的です。

私はいくつかの日本の都市で2週間にわたって一連のコンサートを行いましたが、去る時が来ました。
飛行機は数時間でチュニジアに戻ります。
私は空港に行き、飛行機に乗ろうとしたときに、彼らが言ったように不完全な居住書類のために禁止されました。

私の唯一の選択肢は、ビザなしでパレスチナ人を受け入れる国に行くことです。
約2週間前に、友だちを歓迎するために連絡先や友人なしでマレーシアに飛びました。
これは、私が観光ビザを30日間しか持っていないことを知る前に最初に考えたことであり、
その後、ビザなしで私を受け入れる他の国に旅行しなければなりません。

在留資格がなければ大使館にビザを申請することさえできません。
ガザに戻り、過激派の標的にされるリスクを冒すことはできません。
現在、そこにいる他のアーティストに起こっています。
ラップパフォーマーとしての私の人生は、ストーカー行為、禁止、または投獄のいずれかです。

ガザのイスラム政府は、私たちの現実を批判するような音楽芸術を好まない。
現在の状況を克服する唯一の解決策は、マレーシアの大学に登録することで、論文を1年間滞在させて、
人権を尊重する国に旅行できるようにすることです。

私は自由と尊厳の中で生きようとしていますが、私が尋ねるのはこの状況を克服するのを助けることだけです。
私には自分の人生の道を作り、すべての解決策を見つける能力があります。
私は音楽、ビデオ制作、プロジェクト管理で働いています。
チュニジアの家を出て、努力と愛をこめて新しい人生を創造することを夢見ていた。

しかし今、私はそこに戻ったり、空港間で生活することはできません。
あまり時間がないので、マレーシアを出る時間になるまであと13日しかありません。

私は欲しい:

Limkokwing Universityで登録した1年間の大学費用を支払うことができるために5000ドル。
そして、ここで仕事を見つけるまで生活費で私を助けるために1000ドル。

これは経済的に困難な時期であるだけでなく、明日どこに行けるのかわからないために
感情的および精神的に消耗します。

この困難な時期を乗り越えるために、できる限りの情報を提供するか、共有してください。

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(12月4日 再追記)
昨日12月3日、必要な6千ドルを突破し、6463ドルが寄せられ目標を達成しました。

昨日以降ワタシに寄せられている依頼については、今後本格的に呼びかけをスタートさせる必要がある、クルド友人宅ムスメの進学費用カンパへの振替をお願いしております。理由は、イブラヒム本人が「必要なのは6千ドル」とはじき出し、目標に掲げた以上、現時点ではそれ以上に多く寄せる必要もないとワタシは個人的に思いますし、「どうしてもパレスチナのために使ってほしい」という方からはともかくとして、目標額に達したいま、より必要としてるひとのところへ届けたいと思うからです。パレスチナのあちこちでいわゆる「援助漬け」で変えられてしまったひと、人生というものをみつめてきました。緊急に発せられたSOSには全力で応えるべきだと思いますが、それがクリアできたなら、もう過剰に寄せる必要はないと考えます。

いずれにしても、目標額に達したというのは、あくまで「学生ビザを取得するため、入学する学校の費用をカンパで用意できたのでビザを申請した」という状況に過ぎません。ビザがおりたわけでも、マレーシア滞在を確実なものとできたわけでもありません。今後とも見守りたいと思います。

今回のカンパは「対症療法」に近いものです。本当に必要なのは、占領の終結、封鎖の解除、そして抑圧や不正義を終わらせることです。たまたまワタシたちはイブラヒムをとおして、彼らの現実の一端に向き合いましたが、占領や封鎖や抑圧が続く限り、パレスチナの人びとは苦しみ続けます。たまたま声をあげる勇気と実力を兼ね備えたイブラヒムの背後には、声をあげられない、その機会もないまま苦しむ人びとがいます。そのことを忘れず、行動していきたいです。

最後に、イブラヒムの呼びかけを受け、実際に行動に移してくださったすべてのみなさまに心からお礼を申し上げます。匿名でも「少しだけどカンパしたよ」と個人的に寄せられる多くのメッセージ、そしてドナーのお名前としてリストに載る多くの友人知人のお名前に、ワタシも励まされ、心から感謝いたしました。本当にありがとうございます。

感謝以外にも言いたいことはヤマのようにありますが、このひと月、日々Twitterで繰り返しつぶやいてきたので、ここではいま繰り返さないことにします。

最後に、イブラヒムのひとこと。「希望 is made in japan」。いったん日本に失望し、その思いをぬぐいきれずに
不信感を募らせ、絶望感を抱き、ワタシに「世界中が俺たちを利用する!世界中がパレスチナを使い捨てる!」と怒り、叫んだ彼の姿を思い出すと、もう一度「(ひとを、日本のみんなを)信じてみよう」と思ってくれたくれたこと、そしてこの言葉を伝えてくれたことが、どれほどのことかと思い知ります。


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なかなか腰を落ち着けてPCに向かって長い文章を書くという行為ができないでいる。『パレスチナのちいさないとなみ』を(いつものごとく産みの苦しみでのたうちまわった末)上梓した反動なのか。思いついたときに、ツイッターで140字をつづることは簡単なのに、ブログもフェイスブックもなんだか気が向かない。そもそもPCを仕事以外で開くという行為が最近苦痛ですらある。

10月末から11月上旬に続いたMC Gazaの来日公演と、それにまつわる日々のことは、その都度ツイッターにあげ続けた。もうここでそれを繰り返す気力もないが、愛しく、かけがえのないものを得たのと引き換えに、ボロボロに傷つき、ヘトヘトに疲弊した。そんな気持ちを振り切るかのような、無理やりの強制的な「気分転換」として日を置かず、イブラヒム(MC Gaza)の離日の翌日にワタシも旅の予定が入っていたのは僥倖としか言いようがない。あのまま日本にいたら、気持ちを切り替えられず、納得のいかない思いを引きずったまま、ズルズルと落ち込むだけだっただろうから。

結果として、ロシアにいるあいだ、またイスラミックジハードのリーダーが暗殺されたり、ロケット弾を飛ばしたり、「それに対する報復として」空爆がおこなわれたり、ガザのことが気になって気が気ではなかった、いつものごとく。日本から某地へと飛んで滞在を続けているイブラヒムは、そんな自分の地元の様子をみて「ガザに帰りたい」と嘆く。ロシアでの日々は楽しいのに、まるで楽しむことが罪であるかのような罪悪感が芽生える。これも、いつものごとく。

とはいえ、ロシア極東、本当に楽しかった。刻々と変わりゆく「ロシアのいま」をたとえ表面的とはいえみつめられた日々は有意義だった。学生時代バックパッカーで安い航空券を買うと決まってアエロフロートだった。そのときに味わったモスクワの空港とトランジットホテルのトラウマに近い暗い思い出(いつかこの話を書く機会もあるかも)は、今回みごとに払しょくされた。時代が変わったんだなあ。

さてさて、初日は成田空港からS7(シベリア)航空のハバロフスク行きで三時間。たったの三時間で行けるというのが、今回の旅を決めた大きなポイント。去年、台湾に行ってから、近い、航空券が安い旅がどれほどいろいろな意味で気持ちが楽か思い知ったため。台湾でも壁画を撮り、今回も壁画撮影を楽しみに飛んだ。極東美術館というマイナーな美術館も楽しみのひとつ。シベリア鉄道に乗るのも。アムール川を見るのも。

時差は+1時間。現地時間の18:45にハバロフスク到着。機内はほとんどがロシア人だった。数人ほど現地に駐在されているっぽいビジネスマンの小集団(きっとお互いに顔見知りなのだろう)の雑談姿。空港は日本の地方空港くらいの大きさだったが、隣には新ターミナルがあったので、今後は乗り入れも増えるのだろうと思う。空港から街中まではあっという間。なんとなく台北の松山機場から街中くらいな感覚で着いたように思う(時間を測れよ、距離を調べろよ)。

滞在するホテルはハバロフスクシティ・ブティック・ホテル。ホテルのひとめっちゃ親切、一階の併設カフェもいい、ここでの朝ごはんも美味しい、部屋が広い、設備も快適、言うことない。

さっそくホテルにチェックインして、とりあえずホテルの周辺歩き。日曜の夜だったからか、もうすでに閉まっている店も多い。アムール川を目指して、オレンジの優しい光に彩られた街を歩き、ウスペンスキー教会を外から眺める。さっそくスーパーのマキシムに行って、飲み物、おやつ、パン、チーズ、イカリングフライ、ビーツのサラダなどの惣菜を買いこみ、温かい部屋で部屋食。風が冷たく、肌が痛い寒さ。ヒートテックの上下、防風裏地フリースズボン、フリースハイネック、ダウンベスト、山用ダウンコート、手袋、耳を覆うニット帽子、ネックウォーマー、靴下シルクとウールの重ね履きという装備。でも寒風にさらされた顔が痛い。

そんな一日目の夜。

つづく。多分。。。つづけられますように。。。

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