世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

カテゴリ: アフガニスタンの学校・課外活動編

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パレスチナに行っている間の二回出席できなかったので、久しぶりにアフガニスタンの支援活動のスタッフ会議に参加した。みんなに「おかえりー!」と温かく迎えられ、この6年間一緒にやってきたこの仲間たち、そしてボスとの輪のなかに居る温かさをしみじみ感じて、本当にこの仲間たちのことが好きだな…と改めて気付かされる。

支援を始めた当初「十年後にはアフガニスタンは安定する方向に向かうだろう」との見通しで始めたこの活動。しかし相変わらず大国の意のままに動かされ、いじられ続ける、そして時折また放置されるアフガニスタンはなかなか安定に向かわない。いくらアフガニスタンの人々が平和を望もうとも、ゲームのコマか何かのように翻弄され続けている。

この世界のどこに、子どもを失って平気な親がいるだろう。家族が危険にさらされても構わないなんて人がいるだろう。アフガニスタンの人々だってそれは絶対に平和がいいに決まっている。でも、そんな彼らの声を聞こうとしていないのは世界の方なのだ。暮らしていくには仕事が必要だし、今の時代にはいくばくかのお金が必要に決まっている。そんなシンプルなことも解決できないようなアフガニスタンの構造を作りだしているのは誰なのだろうと考えてみてほしい。

今日みんなで「今のままのカタチでの支援の会」の幕引きについて話した。本当ならば一生、みんなの命ある限り続けて行きたい、見守っていきたい活動であるには決まっているけれど、今の規模のまま同じことをこれからも続けられる予算もないし、永遠の支援なんて不可能だ。それは「縁を切る」とか「もう何もしない」ということでは決してないけれど、十年間と当初予定していた規模、内容の今の支援は区切らざるを得ない。

そこで、どういう風に、どんな規模でその後に関わっていくのかを、最近いつもスタッフ同士話している。「将来、村に戻って教師や医者になる意志や夢のある子に、村からは遠く離れた下の町やカブールにある高校や大学への進学の基金を作って関わっていきたいね」という話をみんなでした。

自分たちが、入学の際にひとりひとりに手渡した筆箱や鞄を抱えた小さな子どもたちが、いつか村で初めての診療所を開いてくれたり、またあの山の学校で更なる未来を支える子どもたちを教える教師になってくれたら、どんなに素敵なことだろう。そしてそれを希望する子の夢を後押しすることが出来たなら…。

現金収入もほとんどない、自給自足の小さな山の村。出会って、関わることが出来て、強く愛するようになった子どもたちが大人になっていくのを、仲間たちと見届けて行きたいと強く思う。

http://www.h-nagakura.net/yamanogakko

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アフガニスタンの総選挙で、にわかにニュースが溢れている。世界の移り気に翻弄される人々がテレビに映し出される。タリバーンをかつて自国への原油供給政策の一環として育てたのはアメリカ自身なのに。

カスピ海の原油を、ロシアの影響を受けず、イランを通らないルートで運び出そうと、ルートのひとつとして目を付けられたのがアフガニスタンからパキスタンへ至るルートだった。そのために、パキスタン軍情報部を通じて、支援を与えたのがかつてのタリバーン。内戦状態のアフガニスタンを強力に支配、安定させるひとつの安定した政権として、タリバーンにその役目が回ってきた。そしてタリバーンがほぼ全土を掌握した。

しかし、タリバーンに巧みに近付いたオサマ・ビン・ラーディンの勢力が、タリバーンを乗っ取る形になった。世直し集団として期待されたタリバーンは、どんどん強権的になり、アルカーイダの影響を受け、アメリカの言うことを聞かないようになった。

だから、アメリカはいきなり方向転換、他の集団に今度は援助をはじめ、タリバーンを駆逐する方向に変えた。そこで起きたのが、9.11事件。「タリバーンはアルカーイダのテロリストをかくまっている」と、アフガニスタンに空爆と侵攻が始まった。

一方、この写真の生徒のお父さんは、カブールで奥さんとお嬢さんたちと暮らしていた。このタリバーン掃討作戦の中、彼は家を爆撃され、奥さんとお嬢さんたちを失った。皮肉なもので、彼はタリバーンと戦っている勢力の強い村の出身だった。タリバーンを支持したことは、一度もない。「民族が違うから」ではなく、「タリバーンは人々に自由を与えないから」

計り知れない悲しみの中で、彼はカブールに暮らし続けることをやめて故郷に帰った。そこで再婚して、生まれてきたのがこの子だ。

「タリバーンだから」「何々民族だから」そういう定義づけは、益々真実を見えにくくすると思う。すべての人には心がある。その心に寄り添えば、大概の人の願いは同じはずだ。

この子のお父さんは、孫のような年齢の我が子の姿に目を細め「カブールで家族を失ったことは辛かったけれど、それも神の与えた試練だと思う。今は、この家族と幸せに生きていければそれでいい」と、木に括りつけられた、お手製のブランコに乗った娘の背中を押した。

そして、奥さん(この子の母親)はすべての言葉に優しく頷きながら、微笑んでいた。

どんな勢力だっていい。それが、本当にアフガニスタンの普通の人々の暮らしを、幸せを、真剣に考えることができる人たちならば。そして、誰かの利害のために、これ以上彼らが犠牲になることがないなら。

投票所に決死の思いで並ぶ人たちのことを、本気で考える政治家にアフガニスタンの未来を託したい。そして、願わくば、外部の人間は、本当に彼らが困っている時だけ、押し付けず、見守りの姿勢を続けながら、手を差し伸べられるといい。アメリカ政府にこそ、一番それを願う。

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スタッフの仲間と、9月(大阪は10月)の「アフガニスタン山の学校支援の会」の総会・報告会に向けて準備を進めている。(トップの告知記事、転載可にしました!いつも子どもたちのために、転載をしてくださる皆様、ありがとうございます)

今回は、初めて子どもたちが描いてくれた絵のポストカードを作ってみた。「洗濯」「子守」「通学」「授業」などなど、ボスが「自分たちの生活を描いてみて」と発案し、出来上がったもの。

図画を教えられる先生もいない、画材も満足にない、色を遣うということに途方にくれる子どもたち…そんなところからスタートした。そして、会を立ち上げて、子どもたちとの付き合いが深まる中、ようやく模倣ではない独自性のある絵が描ける子も現われ始めた。

今年の報告会では、ボスが頑張って持ち帰って来た子どもたちの絵を、描いた子どもたちの顔写真とともに飾るつもり。名簿と難解な手書きのダリ語の名前をにらめっこ。でも、やっぱり、現地訪問を除けば、この報告会前が一番子どもたちの心に、スタッフ自身近づけるひととき。そんな日々は、大変だけど、楽しくもある。予算がどうの…入会者数がどうの…勿論、財源がなければ、支えて下さる仲間が増えなければ、大きな夢で終わってしまうこの活動。それらは大事なことには違いないんだけれど、やっぱり子どもたちに直接関わることを考える方が、スタッフ一同、仕事もはかどる。

気がつけば、アフガニスタンの訪問から2年も経ってしまった。時折聞こえてくる子どもたちの元気な様子は、心の支えだ。

アフガニスタンは現在総選挙が行われている。タリバーンに対する掃討作戦だけでは何も変わらないどころか、事態はますます悪くなるばかりだろう。タリバーンは「外国の勢力が出ていかない限りは話し合いには応じない」との姿勢。一口にタリバーンと言えども、設立当時の理想に燃えた神学生の集まりだったあのころの面影はない。今では、失業者を「月100ドルで雇用」するような意味合いの、思想のない戦闘員も多いと言われる。首都のカブールや、ほんの一部の人間だけが利益を得る典型的な汚職社会に、一般市民はガッカリしているのが本音。

ただただ、出会った子どもたち、まだ出会っていない子どもたちが、自分の未来を切り開いて行けるような国づくりをしてほしい。今まで大国のエゴで翻弄されてきたアフガニスタンの人々が、自分たちの意志で、誰にも何かを強制させられることなく生きていけるような、そんな社会になっていってほしい。

その先に、あの子たちの笑顔がある。

写真は、支援する学校のある村で出会った子どもたち。正面の彼女は、親が、働き手としての彼女の労働力を手放すのを拒否し、就学年齢になっても学校へ通わせてもらえなかったが、遂に昨年、先生方の説得が功を奏し、1年生として入学した。学校へ子どもを通わせることの意味を、粘り強く先生方も地域の大人に訴えている。

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いよいよ明後日から始まるthinkiwiさん達「タイ山岳民族子ども笑顔の会」とのコラボ写真展「あの山で出会った笑顔」。仕事の合間に必死で準備中です。

夜な夜な作っているのが、手作りのミニ写真集。意外とコストがかかるもので、値付けにかなり悩んでいます。まあ、売れないことを前提に、気楽に付けさせて貰おうかな。

今日は、ようやく展示のメインとなる4枚の手焼きのプリントが出来上がりました。今回、今まで出していない作品はキャビネ(2L)サイズをメインにしたのですが、どうしても手焼きに、四つ切という大きさにこだわりたかった4枚がありました。どうぞ、会場でお楽しみください。遠くおいでになれない方のために、ちゃあんと会場の写真を写しておきますね。

会場では、ポストカードやミニ写真集、写真のプリント、写真がプリントされたTシャツを販売する予定です。経費を差し引かせていただき、残りはアフガニスタン山の学校支援の会の活動に充てさせていただきます。

会場で、たくさんの笑顔に出会いたい!

写真は4年生の生徒。轟々と流れる川のそばまで岩をかけ下り、下からソーイと呼ばれる山菜を摘んで抱えて戻ってきたところ。どんな男子生徒よりも速いんだ、彼女!

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学校の子どもたちの暮らしぶりを見ようと、学校から1時間ほど山を登った集落に一泊二日の家庭訪問に出かけた。

やはり、家にお邪魔して暮らしぶりを見せて貰った家庭とその家の子どもたちには尚更親近感がわいて、学校で会うだけより、一緒に遊んだり過ごしたりすることで深く絆が深まったようにも思える。

この家のお父さんともゆっくり学校のことについて話した。例外なく山の上の集落の家族は農業で生計を立てているので、普段は自給自足で生計を立て、特別に現金収入が必要なときだけ、2時間かけて山を下りて下の町に家畜や農作物を売りに行く。

「あななたち日本の友人たちからの援助がなかったら、実際には子どもたちのすべてを学校に通わせることは出来なかった。ノートやカバンや鉛筆すら子どもの数だけ揃えるのは、この暮らしでは厳しいから。本当に感謝しているんだ。自分は学校には通わせてもらえなかったから」

現地に行く前は、屋根もある、窓もある、机もイスもある学校の写真を見て「もう充分なんじゃないか。これ以上すべきことはないんじゃないか」と浅はかにも思っていた。援助というのは、学校というカタチをキレイにして終わり、そんな単純なものじゃないことを知らなかったあの頃は。実際には、学校に通うためには文具やカバンが必要で、あの山の上の暮らしでは、そのための現金を用意することすらとてつもない苦労を負うことで…。そして、無配、遅配も珍しくない政府からの給与だけでは生活が成り立たない教師たちを支援しているからこそ、学校が成り立っている訳で。実際に下の町や都会の方では教師は少ない給与で遣り繰りが出来ないから色々なアルバイトをしている。政府もそれは黙認済みだ。でも、あの山の上ではアルバイトなんか何もない。自分の暮らしのために、家族を養うために下の町へ下りようとする先生方をつなぎ止めているのは、先生方の情熱と、給与支援だということは紛れもない事実。

世界には、もっと悲惨な光景が、現実がいくらでもある。食うや食わずの状況に置かれた子どもたちだって数え切れないほどいる。そんな中で、この学校での活動にこだわるのは、自分には「出会ってしまったから」としか言いようがない。

このベビーベッドに寝ている赤ちゃんも、大きくなればお兄ちゃん、お姉ちゃんたちと、あの山の学校に通うことになる。その日まで、細々とでもやるべきことを続けながら、そんな子どもたちを見つめ続けられるといい。

アフガニスタン山の学校支援の会 活動報告会
11月9日杉並公会堂
11月22日高現代劇場
子どもたちの笑顔に出会いに是非おいで下さい。
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