
行く前は、ドキドキしていた。その姿がなかなか見つからなくて、檻の奥の茂みのなかにその頭から背中にかけての縞模様をみつけて、ようやくその姿に出会えた。
でも、トラちゃんは何十分、何時間みつめていても、一向に顔をあげることもなく、茂みの奥で昏々と顔を伏せて寝ていた。ほんの一瞬顔をあげて、手足の身づくろいをして…という姿に心を躍らせたのも一瞬、また顔を伏せて眠り始めた。
井の頭のときのように、毎日のように顔をみに行くこともできず、カメラを取り出してトラちゃんのケージの前に張り付いてシャッターを切れば「またオマエかよ、毎日オマエも好きだにゃあ。プイ」という顔をされることもない。「ああ、トラちゃん、遠くへ行ってしまったんだな」と、すごく寂しい気持ちになった。
井の頭では、いかにしてトラちゃんの気をひき、フォトジェニックな顔をしてもらい、その姿を切り取るか、一方、トラちゃんは、ワタシが気をひこうとアレコレ画策して、うっかりそれに乗せられてしまい、そのことに気付くと必ず「シマッタ」という顔をした。歩いているとき滑ってこけそうになって、あたりを見回してワタシがみていたことに気付いたときもそんな顔をした。ワタシがトラちゃんの顔をじーっとみつめれば目をそらし、たまーに「駆け引き」でワタシが他の方向をみていて、バッとトラちゃんに視線を戻し、彼はワタシの方をみていて目があったときもよくそんな顔をした。そして必ずプイと顔をそらした。その顔が好きだった。そういうどーでもいー遊びが好きだった。でも、もう、そんな日は帰って来ない。
トラちゃんが盛岡へ行くことになったのは、日本全体でのツシマヤマネコの繁殖計画に基づく。盛岡にいたツシマルが繁殖のペアに選ばれ移転して、その穴埋めのためにトラちゃんが盛岡へ。繁殖は成功し、ツシマルには四頭の子どもができた。ワタシのただひたすらエゴイスティックな寂しさ、悲しさも、これで少しは報われたのだろう。分かっちゃいるけど、理屈じゃないのが「恋」というものだ。ワタシは出会ってからずーっと、トラちゃんに恋をし続けている。久しく忘れかけていた若かりし頃の思いのような、「決定的な失恋」みたいな気持ちを、盛岡で味わった。もう二度と、井の頭でのあの日々は帰って来ないのだと、改めて思い知らされた。
「さようなら、トラちゃん」顔を伏せて眠り続ける彼に別れを告げた。なんだか、すごく悲しかった。なんとなく、もう会えない気がした。こんなに辛い気持ちを味わってまで、また笑って会いに行ける気はしなかった。















