
夢を見た。大昔、留学生として暮らした、いつか本格的に移住すると考えていた「第二の故郷」と思っていたエジプトの夢を。エジプトに足を運ばなくなってからもう八年になる。やはり「アラブの春」が潰れ、潰され、民主的な選挙で選ばれた大統領がクーデターで追われ、刑務所に入れられ、獄死したこと、その経過で若かりし頃濃密なときを共に過ごした大親友との意見と感情のすれ違いからやがて自然と距離ができてしまったことは大きかった。いつかまた、乗り越えられる日が来るとは思うけれど。
さて話を戻そう。夢に見たのは、初めてエジプトに行ったとき、二週間ほどを過ごしたカイロ南部のヘルワーンの友達のこと。ヘルワーンはカイロのメトロ一号線(最初に行ったときは一号線しかなかったよ!)の南の終点。カイロの中心部から一時間くらいかかったような覚えがある。ヘルワーンには「日本庭園」と名付けられたヘンテコ東洋風庭園があり、その庭園の目の前にジャパンパレスホテルというホテルがあった。そこに寝泊まりしながら、この町に住む先生のもとに通いアラビア語のレッスンを受けたことが、エジプトにハマりこみ、挙句の果てには留学までしてしまうほど惚れ込むきっかけとなった。
ジャパンパレスホテルは、地方都市によくある、商用や地元のひとたちの結婚式やパーティなどで使われる中級ホテルだった。中級と言ってもかなりくたびれている。ヘルワーンはセメント工場のある町だったので、そういう商用客はいたのかもしれない。でも、あまりほかの客の姿はみかけなかった。そんなホテルに不釣り合いなほど多くの従業員がいた。客がいないのだから、大して仕事もない。彼らにとって、ワタシはいい「退屈しのぎ」だったことだろうと思う。でも、その日に学んだことを「実践」する、復習するには、暇そうな彼らと過ごすのが一番だった。ホテルのレストランやレセプションや従業員用控室に陣取って、彼らと一緒に過ごした。いま思えば、ワタシが先生から毎日学んでいたのはフスハー(正則アラビア語、文語)なので、例えて言うなら、古語、古文で話しかけられるようなもの。ワタシたちが外国人から古文を使って話しかけられるところを想像してみると、頓珍漢なやり取りに、みんなよく辛抱強く付き合ってくれたなと思う。
ホテルの従業員で、同い年のアムルとレダというふたりと、とびきり仲良くなった。アムルとレダは遠い親戚同士で幼なじみ、ふたりはものすごく仲が良かった。彼らの休日に、ワタシはレッスンをサボってカイロ動物園に三人で行った。後から知ることになるが、アムルもレダも全然裕福ではなく、きっとワタシをカイロまで連れて行き、ナイル川でボートに乗せ、昼飯にパンと硬いしなびたチーズとハムを用意してサンドウィッチを食べさせてくれる費用は、必死で捻出してくれたに違いない。どれも数十円から百円、二百円のことだが、後から知る彼らの暮らしぶりをみれば、懸命にふたりでもてなしてくれたことがわかる。ワタシには1ギネーも出させてくれなかった。

(左からレダとアムル。これは後年、三人でアレキサンドリアに旅行したときの写真)
一度目のエジプト滞在を終えて、アラビア語の糸口くらいは何とかつかんで、なによりも、アムルとレダともっと話したいというアラビア語を学ぶモチベーションが生まれて、アムルとレダとは文通(!!!時代を感じる!)を繰り返した。エジプトから届く、クシャクシャの手紙、ふたりの達筆すぎるハンドライティングに悪戦苦闘しながら、日本での日々を必死にバイトをして、次の旅費を貯めるという生活に費やした。そして、春休み、夏休み、冬休み…と大学の長期休暇のたびに、アムルとレダに会いにエジプトへ通った。

(エジプトの庶民が暮らすアパート。アムルの家もこんな風だった)
二度目のエジプト滞在、ヘルワーンで再会したアムルとレダは、私の荷物を手に取り、タクシーに乗り、アムルの家にワタシを連れて行った。特にそんな約束をしていたわけでもなかった。「ミカは今日からうちで暮らせばいい。ママもそう言っているから」とアムル。アムルはお母さんと弟アラアの三人暮らしだった。長男のアリーはいわゆる「超逆タマ婚」で、家を出ていた。会社の社長(確か車の販売業だった気がする)に仕事ぶりや人柄を気に入られ、社長令嬢と結婚し、社長の暮らす高級マンションの別のフロアーを与えられて暮らしていた。お父さんは若いころ病気で亡くなっていた。お母さんは毎朝近所の工場に働きに行っていた。アラアはまだ高校生。アムルは高校を出てすぐにあのホテルに就職したのだった。
アムルの家で暮らすことで、初めてエジプト人庶民の暮らしを知った。アラビア語の先生はいわゆるエリートで、エジプトを出て日本やサウジアラビアで教えていたこともあり、その当時も私立のお嬢様学校の先生で、アムルの家の暮らしぶりとは全然違った。アムルの家で、ワタシは、少なからずショックを受けていたように記憶する。家の中のなにもかもが「くたびれて」いる。ベッドもテレビもテーブルも食器も、なにもかも。電球の切れた台所やトイレ兼浴室は、洗い物や洗濯物があふれている。台所の水道管が壊れているので、食器は浴室のシャワーで洗っていた。トイレもなかなか壮絶な状態で(詳細は控えます)、シャワーを浴びたいとはとても言い出せなかった。ようやく言い出せても、お湯はほとんど出なかった。部屋は三部屋。居間兼ママの寝室、アムルの部屋、アラアの部屋があった。それぞれのちいさな部屋にあるのはベッドくらいのものだった。ワタシは、この日からママと一緒のベッドで眠ることになった。食事もフール(豆)中心な質素なものだった。
これが、庶民の暮らしだった。一家は、とにかく暖かかった。ろくにアラビア語も喋れないワタシに、必ずアムルかレダかアラアが付き添い、時間ができればあちこちに連れ歩いてくれた。エジプトでの庶民の暮らしの「初めて」を、ここでたくさん経験した。とはいえ、シャワーが浴びられなくて辛い、プライバシーがなくて辛い、エジプトにいるのに何も見てない、どこにも行っていない、そんな焦りや鬱憤やストレスとともに、初めての「居候生活」は進んで行った。
途中、何度かひとりになりたくて、シャワーを浴びたくて、何もかもが相手の都合によってしか決まらない、進まないことに耐えられなくなって、「ほかのエジプト」が見たくて、アムルの家を出て旅に出た。でも、アムルもレダもママも、どこからでも「必ず毎晩電話するように」という。初めはその「過保護ぶり」に驚いた。でも、気がつけば、みんな普段から驚くほど電話をお互いに掛け合って、とりとめもない無駄話に花を咲かせているのだった。旅先で、みんなの声を聴くと、急にあの家に帰りたくなった。「早く帰っておいでよ。週末は○○へ行こう」と言われると、里心がついた。これが、ワタシの「居候事始め」だった。その後、居候先で感じる「ひとりになりたい」「シャワーを浴びたい」「誰の都合も関係なく自分で予定を立てたい」「ほかの世界が見たい」というストレスはまったく変わらないのに、それ以上に居候生活から見えてくるものが面白すぎて、ついつい居候を決め込んでしまう。アフガニスタン、パレスチナでのそれぞれの居候生活で見えたものは、かけがえのないものだ。
すべては、アムルの「うちにおいでよ」がスタートだったんだな。そんなアムルの夢を、見たのだった。
その後、休みのたびにエジプトへ向かい、卒業してエジプトに留学して、その留学中は「いつでも会える」という気のゆるみで、かえってアムルともレダとも疎遠になってしまった。アムルもレダもホテルの仕事を辞め、ふたりがあまり一緒にいなくなってしまったことも大きかった。アムルの幼なじみの婚約者が、ワタシとアムルが仲が良いことを快く思っていないと聞かされたことも大きかった。いつの間に、ヘルワーンが遠くなった。
アムルともレダとも、いまではまったく連絡を取っていない。連絡先も知らない。いま、どうしているのかも知らない。でも、いつか会えるはずと根拠もなく思っている。なんとなく、あの古ぼけたアパートを訪ねれば、誰かがアムルの居場所を教えてくれる気がしてならない。住所も覚えていない。でも、あのホテルからの道順を、かすかに覚えているような気がする。行けばたどれるんじゃないかという気がしている。おじーちゃん、おばーちゃんになって再会するのも悪くない気がする。
会いたい、けれど、会ってなにを話すんだろう。結局、留学中エジプト生活に慣れて、自分なりの「新しい世界」がたくさんできたワタシは、親離れするかのようにアムルやその家族やレダから離れてしまったのだ。なんんとなく、共通の話題があまりないことにも気づいてしまって。薄情だよな。アムルも、きっとそのことに気づいていたんだと思う。留学中、ワタシのアパートにかかってくる電話がどんどん減って、ついにはかかってこなくなったのだった。それまでの三年間は日本とエジプトに離れていたときですら、あんなに「近く」て濃密な付き合いだったのに。一時間の距離になって、急に「遠く」なったのだった。
居候のあいだ、どこかへ行くのも付き添いの誰かの都合次第ということに嫌気がさし、「旅に出る」と宣言しても「週末はどこかへ連れて行ってあげるからここにいなよ」と説得され、「農村に行きたい、普通のエジプトの田舎が見たい」と駄々をこねるワタシを、アムルが友達の住むサッファ「というナイル川沿いの村に連れて行ってくれたことがあった。そのときの写真が残っている。



ああ、すっかり疎遠になってしまっているエジプトだけど、ワタシにはやっぱり「原点」なのだという気がする。原点に立ち戻りたい。エジプトを気の向くまま、風任せに歩きたい。カメラを片手に。
アムルと家族と、レダに会いたい。きっと驚くだろうな。
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