世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

カテゴリ: パレスチナの詩(うた)

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かつてパレスチナを歩いて、話を聞いて、撮ってまわっていたころ、一度だけ取材中に涙を流してしまったことがある。本当ならば出会う人の笑顔で一杯の記事を書きたい。このブログも希望で一杯のブログにしたい。ことさらに悲惨なことだけを強調するようなことはしたくない…けれど、現実はそんなに笑顔ばかりでも、希望ばかりでもない。この日のことを書いてから、日本を発ちたいと思う。

二回目のガザ地区訪問の時、再び前回の訪問でお世話になったHの家を訪ねた。彼の家はガザ地区に古くから暮らす農家で、この地区に暮らす人々は大体が親戚関係にある。不幸にして難民となってしまった人々よりは暮らし向きは豊かで、耕した畑で実った農作物を販売したり、飼育する鶏や卵を販売したりして生計を立てている。

ボンボン育ち故なのか、前回会った時には強引で、我儘も炸裂で、ビックリするほど能天気だった彼も、その数か月の間にたびたびガザ地区にイスラエル軍の侵攻があったことも影響し、すっかり顔つきも印象も変わっていた。考えていることは大好きなサッカーのことばかりだった彼が、イスラエル軍への侮蔑と嫌悪を漲らせて暗い顔をしていた。度重なるガザ地区への侵攻と夜通し走りまわる戦車の音で、地域の子どもたちや赤ちゃんたちは、引きつけを起こしたように泣きわめいたり、恐怖で口数が減ってしまったり、何がしかの影響を受けてしまっているとHが説明してくれた。

一軒の家へ案内された。そこはHの親戚の家、幼馴染でもあるHより少し年上の男性と赤ん坊とその祖父母くらいの年齢の老夫婦が居た。Hが事情を説明してくれる。「この一家はうちの親せきで、この赤ちゃんのお父さんはイスラエル軍に最近殺されてしまった。この赤ちゃんのお母さんはショックで立ち直れず、彼女の実家に帰ってしまった。残された生後4か月の赤ちゃんは、この子のお祖父さん、お祖母さん、叔父さんが育てているんだ」

家族を失うこと、不条理に家族の命を奪われること、残された家族の辛さ、まだ幼い子どもの苛酷な運命…そういうものを頭では分かっていたようなつもりでいても、初めてリアルに自分の目の前に突きつけられた。今、この目の前に居る一家が、今現実的にそんな辛い思いを味わっているんだということを、突きつけられた瞬間だった。この家族には、この時点ではひとかけらの希望すらなかった。残されたのは、大事な家族を失って絶望と、混乱と、途方に暮れる思いを抱える家族の姿。

お祖母さんが、その赤ちゃんを膝に抱き、亡くなった息子さんのシャハーダ(死亡証明書のようなもので、ハマスなどからお見舞い金とともに付与される)を抱き「どうぞ撮ってください」と仰った。ワタシはあまりの動揺に隣に居るHを見上げた。気が向いたときだけフラリと現れ、他人の痛みに土足で踏み込んで、一度だけシャッターを押して、「はい、ありがとう、さようなら」なんて…。そんな自分のやっていることへの疑問と嫌悪感を目の前に突きつけられた思いでシャッターを押すことが出来なかった。Hは今までに見せたこともない大人っぽい表情でワタシを諭した。「ここで痛みに押しつぶされてどうする?君が今撮らなきゃ、書かなきゃ、この家族の痛みも涙も誰にも伝わらない」

この写真の像をファインダーから覗きながら、悲しさと、怒りと、自分の弱さへの悔しさと、色んな思いが溢れて来て、涙が流れた。そして、自分が流している涙の何百倍も、何千倍もの涙が、日々ここで流されていることを思い知った。泣いていいのは自分じゃない、自分が出会ったことの責任を果たさなければならない。そのことを本気で実感した一日。

だからこそ、パレスチナへ戻らなきゃ。

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パレスチナ行きの準備を少しずつ始めている。仕事に追われる毎日なので、正確に言えば心の準備を始めている。ルートづくりや、宿泊先や訪問地のピックアップのため、最新版の英語のガイドブックと睨めっこ。聖地であるエルサレムやイスラエル国内の都市の情報を集めるのは簡単でも、パレスチナ自治区の情報を日本から集めて行こうと思うのは至難の業。結局行ってみて、臨機応変に対応していくしかない。

色々と考えていると、少しずつモチベーションが上がってくる。皆さんが言って下さるように、自分なりの視点でみつめたパレスチナを近い将来お伝えできるといい。普通の人が、普通に暮らすそんなパレスチナの姿を。

2000年と2001年に訪れた時、三大宗教の聖地であるエルサレムを見つめてきた。よく「宗教の対立があるからいつまでたってもこの地は紛争が絶えない」などと言われるけれど、ワタシは決してそうは思わない。勿論そういう側面がゼロだと言っているのではない。ただ、宗教だけが理由ではないし、むしろそういう側面を利用しながら力を握ろうとする勢力があるから、一般市民は利用され、傷つけられていると感じる。宗教や信仰心は、あくまで個々と神との間のことであり、心の平穏のために信仰があるはず。それを歪曲し、利用することから争いに繋がっていく。争いの本当の理由は、様々な利権だったり、損得勘定だったりする。「宗教」と名を冠しておけば、ずっとそれらしく聞こえるし、ずっと大きな大義のために闘っているように見える。

たとえば、あまり知られていないような気がするが、パレスチナ人と聞いて、クリスチャンのパレスチナ人を想像する人がどれくらいいるだろう?実際に西岸地区には多くの宗教的にはキリスト教徒であるパレスチナ人が暮らしている。彼らもイスラーム教徒の仲間と、パレスチナの独立もしくは公平な人権の獲得のために闘っている。パレスチナ人=イスラーム教徒ではないのだ。では、エルサレムを巡って、自治区内の土地の割り振りを巡って、イスラーム教徒とキリスト教徒のパレスチナ人は対立しているのだろうか?ワタシには、彼らはお互いに良き隣人として、ずっと共存しているように見える。

この地に聖地があるから、問題がなかなか解決しないことも事実。イスラエルとパレスチナの和平交渉の際にも、必ずネックになるのはこの聖地エルサレムの帰属の問題。だけれども、聖地があるから争いがある訳ではない。聖地や宗教という目立ちやすい原因以上に、もっともっと小さく目立たない、日々の暮らしの中での人間の尊厳の問題があるからこそ、なかなか平和が訪れない。

何はともあれ、この三大宗教の聖地が、大きな鍵を握っている。

写真は、預言者ムハンマドが昇天したと伝えられる岩のドーム(エルサレム・ムスリムの聖地)、古代ユダヤ教の神殿跡である嘆きの壁(エルサレム・ユダヤ教徒の聖地)、イエス・キリスト誕生の地と言われる生誕教会(ベツレヘム・キリスト教徒の聖地)。

この三大宗教の聖地のある場所、こここそが、世界中に平和の意味を発信できる場所であってほしい。

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ガザでお世話になっていた家は農家だった。難民ではなく、元から先祖代々ガザに住んでいた一家。彼の家は農業の傍ら、小さな商店を経営していた。どこにでもあるような小さなスーパーマーケット。

この日は、朝から飼育していた鶏をさばいて、近隣の住民に鶏肉を売る日だった。大きなドラム缶のような大鍋にグツグツと煮えたぎったお湯が張られ、そこに首を落とした鶏をしばらく突っ込んで毛をむしりやすくしてから、毛をむしる機械の中に入れる。小屋の傍らでは、自分の運命を知ってか知らずか、鶏たちが大騒ぎ。

一家総出で、大人も子どもも作業を手伝い、見守る。ちょっとしたお祭りムード。今の日本では想像もつかないかもしれないが、食卓に肉がのぼるなんてガザではまだまだ特別なこと。ハレの日のムードが漂っている。

そんな楽しい作業を見守り、子どもたちの歓声を聞きながらニ階でお茶を飲んでいると、突然ピシピシという鋭い音がのんびりムードを切り裂いた。台所に居たお母さんとお姉ちゃんの悲鳴、「伏せろ、床や地面に伏せろ!」と叫ぶお父さんの声。ヒステリックに泣きわめく赤ちゃんの泣き声。

数分が経った、数十秒だったのかもしれない。もう銃弾が飛んでこないと判断したお父さんは、家族全員の無事を確かめて回った。運良く、被弾した部屋には誰も居らず、壁や窓ガラスが穴だらけになっただけで済んだ。

「イスラエル兵が監視所から撃ってくることもある。その向うの入植地から入植者が撃ってくることもある。そういうことが頻繁にあるけど、そのたびに子どもたちが恐怖で引きつけを起こしたり、パニックになって泣きやまなかったり、色々なことが起こる」

怯えきった青い顔で、父親に命じられて散らばった弾丸を拾う子どもたち。小さな手のひらの上に載った鉛の弾。この小さな弾が日々普通の暮らしを営んでいるだけの人々の人生を切り裂く。

撃ち込まれたこの家はテロリストの拠点だろうか?庭先の小さな小屋で製造されていたのは武器だろうか?大抵、イスラエル軍の報道官は襲撃した場所を「テロリストの潜伏したとみられる家…、テロリストの武器製造所…」などともっともらしく説明する。でも、私が目の前で見たのは、小さな子どもと農家のおじさん達が「鶏をさばいていただけ」という光景。ここに銃弾が撃ち込まれるどんな理由があるというのか?

お父さんは怒りも湧かないと言う。「ただただ、みんなが無事で良かった」と。

でも、もし運が悪く、無事では済まなかったら?

そして、無事では済まなかった何千人もの悲鳴が今日もガザ中にこだまする。

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ヨルダン川西岸のへブロン、当ブログでも何度か登場している街。ユダヤ人入植地と隣り合わせの街で、大きな衝突の緊張を常に孕んでいる街。この西岸のパレスチナ人地区の中に無理やり橋頭保のような形で作られたユダヤ人の入植地はイスラエルの中でもバリバリの右派、タカ派が完全武装で暮らしている。またその入植地を守るため、イスラエル軍が常にパトロールを続けている。パレスチナ自治区でありながら、いつまでたってもパレスチナ人は自由に暮らすことのできない街、それがへブロン。

この旧市街にも多くのパレスチナ人の商店が並ぶが、情勢によってすぐに営業が出来なくなる。度重なるチェックポイントの封鎖による流通の滞りや、軍事的な衝突だけでなく、イスラエル軍による突然の外出禁止令まである。この時の外出禁止令は日々続く恒常的なものではなかったとは思う。ただし「夕方の何時以降は外出禁止」という命令が下されていたと記憶している。その時間が近づくと、街から人の気配が消える。シャッターが完全に下ろされた人気のない街に、イスラエル軍のパトロール車がサインをピカピカ光らせながら走っている。

人気の消えた街で、三人の親子に出会った。どうしても必要なものを買い物に行っていて、今から急いで帰るところだと言う。男性の子どもたちは完全に怯えきっている。今ならその怯えが分かる。元イスラエル軍兵士の告白によると、「外出禁止令下で外出している者は問答無用で撃っていた。それが子供だろうが老人だろうが…」ここはそういう街だった。外出に緊急の理由があっても、非戦闘員の子どもでも、ただイスラエル軍が一方的に下した外出禁止令を守らなかったという理由で人が簡単に殺される街、それがへブロンだった。

私が訪れて、この一連の写真を撮った時期は、情勢はそこまでひどく緊迫したものではなかったと思う。それでも、「自治区」のはずのパレスチナの街に「(イスラエルにとっての)安全上の理由」から「外出禁止令」が敷かれ「チェックポイントの封鎖」が簡単に行われていた。人々は出かけ先で、自分の家に帰るに帰れず途方に暮れる。そして、危険を冒して道なき道を歩き始める。そこに銃撃の危険が潜んでいると分かってはいても。

元イスラエル軍兵士は語る。
「こんな方法では憎しみしか生み出さない」

でも、イスラエルは決してその事実に向き合おうとしない。「パレスチナ人はテロリストだ、子どもも老人も危険だ、殺してしまえ」と。大袈裟でなく、そんなどう考えてもまともじゃない論理が「セキュリティ(安全保障)」のもとに正当化され続けている。

私がこの地で出会った人々は、みんな感情もある、必死で自分の人生を生きる生身の人間だった。心のない洗脳されたテロリストでなんか決してなかった。そんな人たちが、ただ外出禁止令下に家の外に居たと言うだけで、簡単に射殺されている世界。屋上の洗濯物をうっかり取り入れ忘れ屋上に上がったり、外に出した鳩の巣箱に餌をやりに行ったり、それだけで子どもたちが射殺される世界。

テロは勿論許されることではない。だけど、これ以上何も失うものがないほどまでに叩きのめされて、屈辱を受けて、その行為だけを遠い世界から簡単に断罪出来るだろうか?温かい部屋で煌々と電気のついた明るい部屋でPCに向かっている自分が?

文中の元イスラエル軍兵士の話は、岩波書店「沈黙を破る」を参考にしてある。街中で、ありとあらゆる場所で出会っていた兵士たちが、こんな風に自分が居たパレスチナ側を見ていた…というリアルな告白は、自分の中に大きなものを投げかけた。もう少し、多少なりとも倫理も道徳もある軍隊だと勘違いしていたらしい。もう少し、躊躇しながらパレスチナ人に鉄拳をふるっているのだと勝手に考えていた。

その実態は、何の躊躇もなくゲームのように、流れ作業のように住民に暴力をふるい、挙句の果てには殺していたなんて…。

一度だけ、至近距離に流れ弾が飛んできたことがある。パレスチナ人の友人たちと一緒に居た時。あの時も、なんの躊躇もなく撃ってきていたのだなと思うと…何かとんでもないものを信じていたんだな、勝手にという気になる。いかにもアジア人の外見だったり、日本のパスポートだったり、そんなものは、あの軍隊の前では何の盾にもならない。

そして、最初から盾なんか存在もしない、パレスチナの友のことを思う。

ああ、今晩も追憶と連想が止まらない。

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「たった全長42キロ、一番狭い地域で幅10キロの細長い地中海沿いの海岸線に沿うガザ地区、世界で最も人口が密集し、100万人を超える人口のうち、78万5千人は難民キャンプに住む難民だ…」

私が手にしている英語のパレスチナのガイドブックは、ガザ地区についてこんな記述で始まる。

このガザ地区に押し込まれた人々は、滅多にガザから外に出られることはない。外に出るにはイスラエル政府が発行するIDカードが必要で、カードがあってもしかるべき理由(イスラエル領内で許可された労働など)がない限り許可されない。かと言って、ガザ地区内には産業もあまりない。細々と経営される商店や町工場が稀にあっても、爆撃や経済封鎖で機能しないことがしばしば。農業も同様だ。農産物を作ってもボーダーをイスラエルにコントロールされている限り、出荷が出来ない。

この、想像を絶する鬱屈した、停滞した空気がガザを取り巻く現状。

そして、この狭い狭いガザ地区に(自分の家から42キロと10キロの四方を是非想像してみてください!)わざわざ作られたユダヤ人の入植地がいくつもある。和平交渉の最低限の条件として、パレスチナ自治区内にあるユダヤ人入植地の廃止、また新たな入植地の計画の撤廃などが挙げられていたはずなのに、無くなるどころか現在も次々に入植地が造られ、ただでさえ狭いパレスチナの領土はますます侵食されている。

これらの入植地は無人の土地に造られたのか?ここに住んでいたパレスチナ人は退去を迫られ、ブルドーザーで家を壊され、木々を引き抜かれ、大切な家族の思い出は瓦礫となった。

この入植地がガザ内のあちこちにある為、ガザ地区を南北に貫く唯一の幹線道路は、そこを横切って入植地に向かうユダヤ人専用のバスの通行のためにしばしば封鎖される。

ある日友達とこの幹線道路を車で走っていたら入植地の手前で通行を止められてしまった。入植地に向かうバスが東西に横切るので、南北に走るパレスチナ人の車輌はバスの通行を待たなければならないと拡声器で命令された。監視塔の上から車を監視するイスラエル兵は、ご丁寧にマシンガンの銃口まで我々の車列に向けている。いつ来るのかも分らないバスを待つために、車の中でじっと耐える。じりじりと時間だけが過ぎていく。いくら待とうが、バスが横切る気配さえない。30分が経過した。終わりが見えない待ち時間ほど辛いものはない。何のためにこんなに待たされているのか?何をいつまで待たされているのか?

あまりの不条理さに堪忍袋の緒が切れて、思わず監視兵に向かって窓から叫んだ。
「いつまで待たなければならないんですか?何のために待たされているんですか?これだけ待たされてるなら、それを聞く権利くらいあると思うんですけどね!」
返事は何も返ってこない。わざわざ英語で質問した。質問がわからないとは言わせない。
「黙って耐えるんだ。あいつらは塔の上から銃で無差別にこの車列に向かって撃つ事だってやりかねない。保安上の理由ってヤツで。二度目は黙ってないと思うよ。君が外国人だからって容赦はしない。パレスチナ人と一緒に居る外国人になんて容赦はしない。君はみんなを巻き添えにする気かい?」
苦笑いを浮かべた友達にそう言われて、後ろを振り向くと、何十メートルにもわたる、黙って耐える以外に道の無い人たちの何十台もの車列が出来ていた。

さらに10分ほど経って、ようやく入植者数人が乗った一台のバスがイスラエル軍車輌に付き添われながら、南北合わせて数え切れないほどの車の前を横切った。塔の上から指示が出る。「行ってよし」そして何十分かぶりに、対向車とすれ違った。

この不条理がパレスチナの現実。自分たちの土地、パレスチナ自治区内ですらこんな目に遭う日常。怒りをグッと堪えながらため息をついてシニカルに笑う友。そしてその友のシニカルな笑いをカメラにおさめる事しか出来ない私。これが日常。

皆さんにお願いしたいのは、一度この彼らの日常を自分の身に置き換えて想像してもらうこと。大切な家族が危篤でも、急病人が救急車で運ばれていても、パレスチナ人である限り例外は許されない。待っている間に亡くなった命、待っている間にこぼされた涙が一体いくつあるのだろう。

それはいつまで続くのだろう。

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