
二回目のガザ地区訪問の時、再び前回の訪問でお世話になったHの家を訪ねた。彼の家はガザ地区に古くから暮らす農家で、この地区に暮らす人々は大体が親戚関係にある。不幸にして難民となってしまった人々よりは暮らし向きは豊かで、耕した畑で実った農作物を販売したり、飼育する鶏や卵を販売したりして生計を立てている。
ボンボン育ち故なのか、前回会った時には強引で、我儘も炸裂で、ビックリするほど能天気だった彼も、その数か月の間にたびたびガザ地区にイスラエル軍の侵攻があったことも影響し、すっかり顔つきも印象も変わっていた。考えていることは大好きなサッカーのことばかりだった彼が、イスラエル軍への侮蔑と嫌悪を漲らせて暗い顔をしていた。度重なるガザ地区への侵攻と夜通し走りまわる戦車の音で、地域の子どもたちや赤ちゃんたちは、引きつけを起こしたように泣きわめいたり、恐怖で口数が減ってしまったり、何がしかの影響を受けてしまっているとHが説明してくれた。
一軒の家へ案内された。そこはHの親戚の家、幼馴染でもあるHより少し年上の男性と赤ん坊とその祖父母くらいの年齢の老夫婦が居た。Hが事情を説明してくれる。「この一家はうちの親せきで、この赤ちゃんのお父さんはイスラエル軍に最近殺されてしまった。この赤ちゃんのお母さんはショックで立ち直れず、彼女の実家に帰ってしまった。残された生後4か月の赤ちゃんは、この子のお祖父さん、お祖母さん、叔父さんが育てているんだ」
家族を失うこと、不条理に家族の命を奪われること、残された家族の辛さ、まだ幼い子どもの苛酷な運命…そういうものを頭では分かっていたようなつもりでいても、初めてリアルに自分の目の前に突きつけられた。今、この目の前に居る一家が、今現実的にそんな辛い思いを味わっているんだということを、突きつけられた瞬間だった。この家族には、この時点ではひとかけらの希望すらなかった。残されたのは、大事な家族を失って絶望と、混乱と、途方に暮れる思いを抱える家族の姿。
お祖母さんが、その赤ちゃんを膝に抱き、亡くなった息子さんのシャハーダ(死亡証明書のようなもので、ハマスなどからお見舞い金とともに付与される)を抱き「どうぞ撮ってください」と仰った。ワタシはあまりの動揺に隣に居るHを見上げた。気が向いたときだけフラリと現れ、他人の痛みに土足で踏み込んで、一度だけシャッターを押して、「はい、ありがとう、さようなら」なんて…。そんな自分のやっていることへの疑問と嫌悪感を目の前に突きつけられた思いでシャッターを押すことが出来なかった。Hは今までに見せたこともない大人っぽい表情でワタシを諭した。「ここで痛みに押しつぶされてどうする?君が今撮らなきゃ、書かなきゃ、この家族の痛みも涙も誰にも伝わらない」
この写真の像をファインダーから覗きながら、悲しさと、怒りと、自分の弱さへの悔しさと、色んな思いが溢れて来て、涙が流れた。そして、自分が流している涙の何百倍も、何千倍もの涙が、日々ここで流されていることを思い知った。泣いていいのは自分じゃない、自分が出会ったことの責任を果たさなければならない。そのことを本気で実感した一日。
だからこそ、パレスチナへ戻らなきゃ。






