
エジプトに留学していた2000年から2001年、スーフィダンスの撮影に夢中だった。週に二回通ううちにダンサーや演奏家の方々と仲良くなった。プライベートなお付き合いが始まった。そんななかでも、一番親しく、かわいがってくれたのがタブラ奏者のパパ、ハサンだった。
パパはエジプトで生きること、エジプトでアーティストとして生き抜くこと、大切なことをたくさん教えてくれた。「うちは息子が三人だから、ムスメができたみたいだ」と本当にかわいがってくれた。「日本人は魚が大好きだろう」と、パパの家があるショブラで魚パーティを開いてくれた。一番バカバカしくて、一番笑い転げた日だったので、魚パーティのことは深く印象に残っている。
冗談が好きなひとだった。どこまでが冗談で、どこからが本気なのかわからないひとだった。チャランポランなところもたくさんあったけど、芸に対しては厳しいひとだった。子どもたち三人は、パパにたくさん振り回されたかもしれないけれど、溢れる愛情はしっかり受け止めていた。「しょうがないなあ、父さんは」と言いながら、ため息交じりにパパのフォローにはいる長男ユーセフの姿が印象的だった。
パパは、新天地を求めた。「エジプトではアーティストがきちんと評価されない。もっと大きな世界を目指したい」と、オーストラリアに渡った。まだ幼かった三男のホクシャも大変だったと思うけれど、オーストラリアで彼はしっかりと成長した。パパの愛に包まれながら。
2002年にカイロで別れてから、ずっと音信不通になってしまっていたパパとワタシ。きっとオーストラリアで元気にやっているのだろうと思っていた。2014年、突然パパからメッセージが届いた。「この十年探し続けたぞ。オーストラリアで会う日本人、会う日本人みんなにミカを知らないかと訊ね続けたんだ。ようやくみつけたぞ」と。
きっかけはフェイスブックだった。ホクシャがパパに「これでミカを探そう」と言ってくれたそうだった。そこから、メッセージや電話の交換が始まった。
パパはワタシが夢を諦めなかったこと、パレスチナに通い続けていること、写真を撮り続けていること、本を出版したことをことさら喜んでくれた。「それでこそ俺のムスメだ!」と笑った。
「いつかオーストラリアにおいで」「いつか訪ねるね」そんな約束を繰り返しながら、とうとう果たせなかった。どうしてすぐに訪ねなかったのだろう。どうして後まわしにしてきたのだろう。どうして「クシャクシャのおじいさんとおばあさんになってからの再会もいいね」なんて悠長なことを考えたのだろう。どうして、こんなに早くパパが逝ってしまうことを想像できなかったのだろう。
どれだけ悔いても遅すぎる。悔いのないように全力で、思い立ったら即行動!がモットーなのに、ときどくこうやって取り返しのつかない悔いを重ねる。それがよりによってパパとの別れなんて。
でも、病気だったとホクシャから聞いた。だとしたら、もう苦しまなくて済むね。天国で安らかなときを迎えているね。
パパ、本当にありがとう。大きなひとでした。大切なひとでした。どれだけ離れていても。
別れのとき「ミカはロバが大好きだから、特注で作ってもらった」と木彫りのロバと、ロバのTシャツをプレゼントされた。木彫りのロバを握りしめると、もう遥かかなた昔のことなのに、そのときのパパの笑顔とぬくもりを思い出して涙が止まらなくなった。
どうか天国で安らかに。
