世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

カテゴリ: シリア・レバノン 2000

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英国下院が軍事介入反対決議をして、事実上、英は表立っては手を出すことが難しくなった。しかし、米仏はまだやる気だ。

理由としては、化学兵器使用を見逃しては沽券にかかわるとか、シリアの同盟国イランへのけん制とか、政府軍、反政府軍のいずれが下手人にせよその矛先がイスラエルに向かうのは困るので叩いておこうとか、軍需産業の活性化のためとか、いろいろとあるのだろうが、シリア人の命のためでは決してない。少なくとも、それが第一の理由では決してない。

日本での報道をみていても、原油の値上がりだの、集団的自衛権の問題が云々だの、そういう視点がまず挙げられて、そこに生きる人々へのまなざしというものに欠けている。きっと、現場の記者は、そういうまなざしなのだろうが、日本で報道、放映される段階では、その部分は見えにくくされている。

国益、もちろん大切でしょうよ。その意味で、戦争がこの世からなくならないことも不思議でもなんでもない。国益に限らず、自分たちの利益を追求すれば、必ず誰かの利益を損なうことになる。だからこそ、外交とか国連のような場が大切で、話し合いこそが大切なのに、現状は「強いもの勝ち」で分捕ったものを、国際会議で後付承認しているに過ぎない。

ワタシは、パレスチナの人々があれだけ見殺しにされたことなども踏まえて、もはや国連に調停者として何の期待もしていない。国連のさまざまな機関、UNRWAとかUNHCRの働きまでを否定するものでは決してないし、むしろそれらの機関にパレスチナやアフガニスタンなどで接する機会を得て、現地では大変重要な役割を担っていると思ってはいても、安全保障理事会、常任理事会などの役割や存在は、設立時の理想はともかくとして、疑問だらけ。

とはいえ、それに代わる国際機関がない以上、結局は拒否権を持つ五大国の意志のみが尊重される。五大国の「常識」や「良心」に期待して、すがるしかないなんて悲劇だ。

米仏やトルコ、サウジアラビア、UAEなどが諸手を挙げてほくそ笑みながらおこなおうとしている軍事介入に絶対反対だ。でも、化学兵器で一派市民を巻き添えに殺すような狂人たちの椅子取りゲームを放置することにも同じくらい絶対反対だ。

もう、十分すぎるほど後悔している。二年間、十万人も見殺しにしてきたのだ。声を上げる機会なんていくらでもあったはずなのに、あげなかった。大国や周辺国の政治家やその裏にいる利権屋、アサド政権の中枢、反政府軍のなかに潜り込む周辺国の手先、みんなクソ野郎だけれど、自分自身も大差ない。

命の重みを、この笑顔のひと達の命のことを、ないがしろにしてきたのは自分自身。そのことを自覚できず、反省せず、他人を罵る資格はない。

だから、自分自身に突きつけるために、今日も、この瞬間も失われようとしている、この彼らのまなざしを、目をそらさずみつめよう。

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もうこの二年間にシリアではすでに十万人も亡くなっている。

いまさら、何を言うことがあるんだと、いまさら、何を言うことを許されるんだと、自分をなじる。

十万人の命を、見殺しにしてきたのだ。

ワタシにとって、シリアは、たった一度…しかも空っぽな心で…一か月ほど旅したに「すぎない」国。深く知っているわけでも、いまでも連絡を取り続けている友達がいるわけでもない。

でも、それでも心に残っている人は、何人かいる。一番は、アレッポで本当にお世話になった宿のじーちゃんだ。毎晩毎晩、じーちゃんが食べる晩ご飯を「ほら、一緒に食おう」とご馳走してくれた優しいひと。痴漢に遭ってものすごく嫌な思いをして塞ぎ込んでいたときに、心配して、そいつにちょっとした仕返しをしてくれたひと。

あのときいくつだったのかは分からない。もう十年以上も前のことだから、アレッポがこんなにひどくなることを目にすることもなく、天に召されていたかもしれない。

むしろ、そうであってほしいとまで、思ってしまう。アレッポはもう廃墟のようだ。

どちらが神経ガスをばら撒いたのか分からない。どちらも、なのかもしれない。バッシャールも彼を支える政権の奴らもクソ野郎だが、反政府軍のなかで暗躍するアルカーイダ系の奴らも、それを裏で操る周辺国も、自分たちの利害のために軍事攻撃を加える英米仏などの政治家も、みんなクソ野郎だ。

そこには、シリアで生きる、必死に生きている、人々の命のことなんて、まるで顧みられていない。

いまワタシにできる、たったひとつのことは、なんの役にも立たないこと。彼らのひとつの命だって救えないのだ。なんて無力なんだろう。いやになっちゃう。

でも、そのたったひとつのことを。

あのとき出会った人々…もうすでに亡くなっているひともいるだろうし、いま必死に生き抜こうとしている人々もいるだろう…の笑顔を、みてもらうこと。

ワタシたちが、無力にも見殺しにした、見殺しにしようとしている人々の、命を実感するために。

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昨日、支援活動の仲間で写真においては大先輩にあたるNさんの写真展を観に行って、ああホントにポジっていいな…と改めて感じた。ただ、業界をよく知る方のお話では、最近ではラボのオペレーターに、ポジを焼く知識が物足りない人が多くて、なかなか思い通りの色に仕上げてもらうのも大変らしい。

家に帰って、ふとポジと言えば…と、シリア、レバノンで撮った写真のことを思い出した。折角ポジ用のスキャンを整理のために買ったのに、なかなかその後時間もなくて進んでいない。

前にも書いたけれど、このときの旅は、自分は抜け殻だった。もう数ヵ月後には別れるしかないと分かって付き合っていた人との関係が行き詰って、逃げるようにひとり旅に出た。こんなに青い海に、こんなに温かい笑顔に出会っていたのに、ほとんど印象に残っていないことが悲しい。もし写真がなかったら、うっすらとした記憶すら呼び出せなかったのかもしれない。

百パーセント完全な自分で、またシリアとレバノンに向かってみたいなあと、最近よく考える。

ところで、またイスラエルの動きが怪しい。原稿書こうとPCに向かったのに、あれこれネット見てる場合じゃないよな…とほほ。

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先日アフガニスタンの学校支援のスタッフ会議の後に、ボスと食事をしていて「写真家はフィルムやデータの管理をきちんとして、いつでもすぐに取り出せるようにしてないと…」という話が妙に心に残った。当たり前のことなんだけど、几帳面さのかけらもないワタシには、きちんと出来ていないこと。「それじゃあダメだ」とお叱りをいただいた。まったくだ。

2008年にデジカメを買う以前の写真の大量のネガとポジの整理、分類にもう何年も途方に暮れている。ボスのお言葉に焦ったワタシ、フィルムをスキャンできるスキャナーを購入した。うちには複合機があるので、二台目のスキャナーを買うことには相当抵抗があったが。

ネガ、ポジ箱(大量に入っていた箱、パンドラの箱ともいう)から取り出して驚いた。全然記憶から消えていたシリア・レバノンの旅の大量のポジが出てきたのだ。

この旅に出たときの自分は空っぽだった。でも自分に打ち克つための一人旅を自分に課して、ヨルダン→シリア→レバノンと周った。そんな当時の心境では、せっかく出会った笑顔を向けてくれた人と、心からは触れ合えていなかったのかもしれない。ビックリするほどキレイに記憶から抜け落ちていた。

ポジのヒトコマずつを一日かけて眺めて、そんな自分の未熟さを悔い、もう一度シリア、レバノンを巡りたくなった。

こんなに素敵な笑顔を向けてくれている人たちに出会っていたのに、どうしてタップリとその尊さを感じ取れないで帰って行ったのだろう。

写真は海沿いの古い町、サイダで出会った人々。

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