世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

カテゴリ: エジプト 革命後のタハリール広場

毎日毎日エジプトのニュースが気になって仕方がない。

つい先日、エジプトへの留学時代から一番の仲良しのMと電話で話した。彼は徹底した世俗派。敬虔なムスリムで信仰心は篤い。宗教は自分自身の内面の問題と考える彼のなかでは、敬虔であることと世俗派であることは相反しない。

2011年のエジプト「革命」で、彼の勤める会社は業績がガタ落ちした。観光業にとって、国の安定は必須。ガタつく国に観光客は来ない。それでも、きっと国はよくなる、いまだけの辛抱だと、自由に声をあげられることを喜んでいた。

2012年、「革命」一年後のカイロで、Mの才能を見出し引き立ててくれたボスのもとで学生時代から働き続けてきた彼は、ずっと勤め続けてきた会社を離れるべきかどうか悩んでいた。

「ボスは仕事もないのにみんなに給料を払い続けてくれてるんだ。いまはこんな時期だけど、きっとよくなるときが来るから、それまで一緒に耐えてほしい…って」。そのことに苦しんでいた。仕事もしていないのに給料をもらい続けることを。そして、何よりずっとそばで一緒にやってきた尊敬するボスの苦悩を間近で見ることを。

Mは、仕事で付き合いのあったドバイの会社からヘッドハンティングを持ちかけられた。「ボスは仕事には厳しいけど、心底はとても優しい人だから、俺たちの誰のクビも切れないでいる。このままじゃ、ボスも会社も破産してしまう。だから、俺はドバイへ行こうと思うんだ」と、打ち明けてくれた。

しかし、彼の奥さんはエジプトを離れることに反対した。「行きたければあなた一人で行けばいいわ。私は娘と一緒にエジプトに残る」と、聞く耳を持ってくれなかったそうだ。「離婚しようかなと思ったよ。もともと、娘の母親…という存在でしかないんだ。特別に愛情があって結婚したわけでもないし、理解しあえないのはなにも初めてのことじゃない」とMは考えたそうだが、結局、最愛の娘との別離を考えると耐えがたく、ドバイ行きをあきらめた。

2012年、彼はサラフィー主義者の台頭をなによりも懸念していた。「彼らが力を握ったら、自由さや寛容さはなくなってしまうんじゃないだろうか…」と。

世俗派の人間も、ひとによっては、民主的に選ばれたムスリム同胞団出身のモルシ大統領や福祉活動に力を入れてきた同胞団を評価していた。しかし、せっかく「民主的な」選挙で選ばれた大統領が、「非民主的な」やり方でその権限を強化し始めたとき、Mは危機感を抱いたそうだ。

今回、クーデターが起きたときにすぐにMに電話してみた。「軍の一時的なコントロールには賛成。あの大統領よりはいい。きっと何もかもがよくなるよ。大丈夫。俺たちのことは心配しなくていいよ」と。

エジプトは、自分にとって近すぎる国でありすぎて、冷静な分析も何もできないで(まあ、もともとそんな能力はないが)、ただただ多くの友の身をオロオロと案じるばかりの日々。

どんな信仰を持つひとも、どんな思想を持つひとも、ひとしく「エジプト人」でいられるような国であってほしいと願う。どんな勢力を支持しているひとであっても、それを理由に殺されることなんてないように…。

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エジプトを十数年も通いながら見守ってきた割には、なにをみつめていたのか、お恥ずかしながらワタシはこのエジプト革命を全く予想できていなかった。確かにカイロのあちこちでデモは頻発していた。職を求める失業者、待遇改善を求める公務員…あちこちで要求が掲げられていた。でも、エジプト人が表立って政権にNOを言い、本気で変えるとは、予想できていなかった。

エジプトの革命が起きたとき、ワタシは隣のパレスチナにいた。正直、うろたえたね。どんどんタハリール広場に増えていく群衆、警察や軍の出方、それらをパレスチナでテレビにかじりついて、固唾を飲みながら見守っていた。その時期不思議なくらいにパレスチナは平穏で、平穏なパレスチナでエジプトの心配をする日が来るなんて、夢にも思っていなかった。

タハリール広場、そこには、留学時代からの親友、エジプトで一番仲良く、長く付き合っている友達のアムルとアハマドがまさに事務所を開いている場所。そこはバスに乗るためだったり、いまは無くなったナイルヒルトンに両替に行くため、トイレを借りるために横切ったり、広場の真ん中でコシャリを友達と食べたり、アハマドとアムルのオフィスに遊びに行って見下ろしたり…そんな場所だった。自分にとって、長いエジプトとの付き合いのなかで、一番馴染みのある場所。そこが革命の広場となった。

広場を眺めながらシーシャ(水煙草)を吸ったのもタハリール、待ち合わせもタハリール、留学時代にエジプト人のボーイフレンドと別れ話をしたのもタハリール(笑)。カイロでの青春のすべてがつまっているような場所。

アムルは無事?アハマドは無事?残していったワタシの荷物は?暴徒と化した群衆の一部での略奪や、旧政権側と革命を求める群衆との衝突、そして警察の鎮圧、それらの場面に、胃がキリキリと痛んだ。

2月11日、遂にムバラクがパワーを放棄した。確かにムバラクは罪もない大勢のひとを弾圧し、殺した。不正な蓄財もひどかった。末期には老害もひどいものだった。息子のガマールを大統領にしようとし、世襲を目指したあたり、最悪の筋書き。富めるものはますます富み、貧しいものは貧しいままだった。それでも、誤解を恐れずに言うならばムバラクは「史上最悪の独裁者」では決してなかった。

だから、ムバラクが大統領の座を追い落とされたのは「時代の流れ」とでも言えばいいのだろうか、そういう「アラブの春」という革命の波だったというか…。他の時代であったなら、ムバラクは追い詰められなかっただろうなと思う。比較しても意味がないかもしれないけれど、キューバ革命が起きる前のバティスタやルーマニアのチャウシェスクやリビアのカダフィや…挙げればきりがない、各地の革命で追い落とされた「独裁者」よりはマシというか。アメリカやイスラエルの言いなりになって、自分や周辺の人間が富むことを考えて、国民を犠牲にしてきた、それがムバラクの罪。だからこそ、「独裁者」であり続けることができたのだから。

そんな政治の不条理を、多くのエジプト人は政治を語らず黙したり、皮肉で切り抜けたり、それがワタシの周りの人たちの常だった。そんな人たちが、笑顔で、誇らしげに「反対することにNOという」という、シンプルだけど、いままでは難しかったことを、堂々と始めた。その姿が、ただただ嬉しかった。

革命後にエジプトに戻って、みんなの顔に浮かぶ笑顔が輝いていた。誇らしげな顔がまぶしかった。

だからこそ、このまま、本当の革命を勝ち取ってほしいと思う。自分たちが決めて、自分たちが選ぶ、そんなシンプルなことも、いまの時代にはそう簡単なことじゃなくなっている。純粋さ理想だけでは、ひとつの国は大海の荒波にもまれてしまう現実がある。そこをうまく切り抜ける成熟さと賢さをもったエジプト革命を成し遂げてほしい。

壊すことはとても易しく、造り上げることこそが困難を伴う。ワタシがひととして尊敬するフィデル・カストロはよくそれを口にしてきた。本当にその通りだと思う。

革命から一年経とうとしているエジプトに、みんなが何を造り上げようとしているのか、是非行ってみようと思う。あの日タハリール広場で出会った人たちが、どこへ向かおうとしているのかを垣間見るために。

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パレスチナ、エジプトから帰ってきてボケボケしているうちに大地震があり、その影響で呆然としているうちに京都での写真展が始まり、帰ってきたと思ったら「あいおい古本市」のトークイベント&写真展と同時進行で東中野ビタミンティーでの写真展の準備。そしてさらに同時進行の原稿書き。アタマがパンクしそうだ。

ようやく、明日のトークの準備と写真展の準備が整った。この狭い家で、A3サイズの写真をモノをかき分けながら場所をつくって乾燥させるだけでも一苦労。片づけられないワタシが悪い。

月島で明日から始まる写真展「パレスチナ・そこにある日常」は新旧の作品を織り交ぜた、明るい笑顔の写真展に仕上げたつもりだ。もちろん、パレスチナが抱える現実は、笑顔の裏にこそある。その背景は提示しつつ。

一方、東中野のビタミンティーで30日(水)から始まる写真展「パレスチナ2011」はタイトル通り全点新作とした。そう決めてはみたものの、何年にも渡る撮影の積み重ねがストーリーに深みを与えるという事実は否めないので、全点新作だけで写真を組むのは難しかった。どちらかというと、あくまでもこれまでのストーリーをご存じの方、拙著を読了くださっていたり、ブログを読んでくださっていたり、いままでの写真展やトークに足をお運びいただいていたりして、「それまで」をご存じの方に向けた組み立てとなった。

とはいえ、初めての方でもお分かりになるよう工夫をするのでご安心を。

今日のお話は、パレスチナからカイロへと戻る帰り道、国境の町タバで出会って意気投合したパレスチナ人ラーエドの話。

彼はエルサレム生まれ、エルサレム育ちのパレスチナ人。ただし国籍はイスラエルだ。こういうステイタスのイスラエリアラブはイスラエル内に150万人ほどいると言われている。

エルサレムでは、さまざまな理由をつけて、こういうイスラエリアラブの人々の家屋を強制破壊し、追放している様子はシルワン、シェイクジャラなどの地域の例を出していままでも触れてきた。

ラーエドの実家は東エルサレム。家族はみな東エルサレムに住んでいる。ラーエドは大学への進学を考えたとき薬学部を目指したが、パレスチナの大学に薬学部は数えるほどしかなかった。まあ大学自体、数えるほどしかないけど。

ラーエドのようなブルーのID(イスラエル領内に住むことを意味する)を持たされたパレスチナ人が、パレスチナ自治区の大学に通うとすると、逆のパターン(自治区のパレスチナ人が許可を得てエルサレムなどの大学へ通う)よりは遥かにマシとはいえ、それでも大きな困難が伴う。その間には検問所があり、この検問所があるために数時間も余分な時間がかかってしまうからだ。それはイスラエル国籍を持とうが、なんだろうが何一つ有利には働かない。パレスチナ人というだけで、IDカードを手に握りつつ、長い列をつくって何十分も何時間も並ばなければならない。

「ナーブルス大学にも薬学部はあったんだけどさ、毎日カランディア(の検問所)を越えて通うのはあまりに大変だった。だから思い切ってエジプトで学ぶことにしたんだ」ラーエドはカイロ大学の薬学部に入った。

カイロに帰って数日後、一緒に「革命」の熱気冷めやらぬタハリール広場を散策した。ラーエドは警備に当たるエジプト軍兵士と一緒に写真におさまりたがり、兵士たちも「勤務中だから」と断る人もいたが、応じてくれる人もいた。ラーエドはあちこちで「何人?」と尋ねられていた。明らかにエジプトのアクセントとパレスチナのアクセントは違うから。そのたびに、ちょっと気まずそうな顔で「ヨルダン人」と彼は答えていた。あとでそのことを尋ねると「パレスチナ人って見知らぬ人に言うといろいろ面倒くさいこともあるから…」とつぶやいた。なんとなく、それ以上聞けなかった。

ラーエドはいまカイロ生活も5年目。「あと1年して卒業したらパレスチナに帰るよ。来年はエルサレムで会おうね」と、別れのときには約束した。

もちろん、本人の実力だけじゃなくて、外の世界で学べるだけの多少の余裕がラーエドの実家にはあり、そういう意味では「恵まれている」と言えるけれど、「検問所」がなければパレスチナで学ぶことを選んでいたに違いない彼のような人たちは、家族や友達から遠く離れた街で、奮闘し続けている。

「革命後」のエジプトを、パレスチナ人の友と歩くという体験は、それはそれでとても貴重なひとときだったと思う。


Cairo,Tahrir squre, 28th. Feb

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パレスチナ・エジプトの旅より帰国しました。

昨日は自宅に帰国後、久しぶりにゆったりとお風呂に入って、荷物も片付けず現実逃避のようにただひたすら爆睡。PCを開いてパレスチナやエジプトに居る友達に「帰ったよ」って言わなきゃとか、写真の整理しなきゃとか、もっと現実的にいくつかの仕事をしなきゃとか…アタマをよぎるのに、立ち上がれず。

あまりに長時間寝過ぎて腰が痛くなった今朝、ようやく意を決して起き上がり、PCを開き、写真の整理を少しだけ始める。

いかんせん撮ってきた枚数が多すぎるので、どう考えてもこのラップトップには荷が重すぎる。そして時差やら疲れやらでボケたワタシにも荷が重すぎる。

パレスチナに行く前までは、まさか行っている間にムバラクが倒されるとか、政権が代わるとか、お恥ずかしながら予想だにしていなかった。出発前、やたらカイロのなかではデモが頻発していた。それを言うなら、昨年2010年の冬もなんだかデモが多いなあ…と感じたのを覚えている。エジプトの民衆は、ジワジワとそのときを待っていたんだね。

パレスチナに着いた途端、エジプトのデモが大きくなり、数百万人がタハリール広場に集まるなんて光景が映し出され、心底驚いた。ワタシの知るエジプトの人々は、決して前政権を支持していた訳ではないが、表立って声を上げることを何十年にもわたって避けていた。不平や不満はグッと心のうちに押し込め、本当に心の許せる間柄の人とだけコッソリと政治を語るのが常だった。

革命が起きていた間、じっとパレスチナの小さな村でのんびりとお茶を飲みながら、その映像をみていることはなんだかとても皮肉で、とても不思議な思いだった。各地で転々と色々なことが起きたり、ときには人が亡くなってはいても、おおざっぱに言って許されるなら、パレスチナはその時期意外と平穏で、その「平穏なパレスチナでエジプトの心配をする自分」の姿なんて想像もしていなかったから。

その間の日々の心乱れる様々な思いは、また改めて語る日がくるかもしれない。紆余曲折を経て、ようやくパレスチナからカイロへ戻った翌日、多少引けた腰で(笑)タハリール広場へ行ってみた。行くまでの間、今までにはなかった場所にバリケードがあり、戦車が駐留し、見慣れた風景のなかに今までなかったものが存在することに、不思議な思いがした。

でも、戦車から監視を担う兵士は市民にとても友好的で、市民からの記念撮影にまで応じていて、「革命後」の市民にとって兵士や軍隊は決して「敵」ではないことが嬉しかった。何故なら、エジプトは徴兵制なので、最前線で任務に就く兵士もまた「市民」の誰かの息子であり、兄や弟であるから。そんな彼らにとって、自分たちの身内がいるかもしれない群衆へ銃を向けることは、辛いことに違いない。

しかし、現実は重く、多くの人が亡くなってしまった。

多くの血が流されたことを、広場に集まる人々は重く受け止めていた。だからこそ、この「革命」を最後まで成し遂げなければならないと、今でもたくさんの人が広場に集まり、旧政権を担っていた現職の大臣や、甘い汁を吸い続けた大銀行の頭取や、そういう人々の辞任を求めている。そして機会の公平、公正、雇用の創出、失業者への保障などなど様々なことが訴えられている。

たくさんの人から話を聞いてまわって「地に足がついた革命」だと感じた。一時期の暴動のような騒ぎ、暴徒による商店などの強奪などはとても暗い気持ちになったが、今ではそのようなこともなく、市民が普通の生活を取り戻している。

第二の故郷エジプトのみんなが自信を取り戻し、声高々と自分の意見を述べる、そんな姿がワタシには一番嬉しかった。たとえ、先には難題が山積みだとしても。

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