世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

カテゴリ: パレスチナ 2011

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あっという間に写真展も残すところあと二日となりました。

ご来場のすべての皆様、ありがとうございました。

今日本当に嬉しかったのは、いまみたいな活動をする前、会社勤めをしていたころ、会社で一番お世話になった先輩Kさんと、一番気が合って仲良くしていた後輩のウメが来てくれたこと。会社勤め時代にこのブログを始めたので、Kさんのことも、ウメのことも、何度もいろいろ書いてきました。

Kさんは、入社したてのワタシに、「聞いたよ、高橋さんって昔パレスチナに行ってことがあるんだって?なんか、そのときのこと書いたりしてたら読ませてよ」と、当時のワープロ打ちの雑文を読んでくださった、しかも感想まで書いてくださったことがきっかけで、その後のアフガニスタンでの活動や、いろんなことを相談したり、話を聞いてもらったり、応援したりしてくださり、会社を辞めて、会社に勤めていた年数よりも辞めてからの年数の方が長くなってしまったいまも、気にかけて、応援してくださっているという優しい先輩。

今日も、ラムの焼き肉をご馳走になり「お代はいらないよ。向こうの子どもたちのために使ってあげな。出来る人が出来ることをやればいいんだから。俺だって先輩からそうしてきてもらった。だから自分も後輩に返しているだけだから」と。いつも、そうやって、ご馳走してくださる。

ワタシは、あの会社で本当に多くの事を学んだ。パレスチナにもアフガニスタンにも、さして関わりも関心もなかったという方々が、「おまえがやってることだから」と話を聞いて下さったり、応援してくださったり、関心を寄せてくださったりということが、粘り強く続けていると増えていった。どういう風に、そういう方々に伝えていったらいいのかということを、真剣に考えた数年間だったし、そのことの経験が、いまにもつながっている。だからこそ、間口を広げて、「パレスチナ問題なんて知らないし、難しそうだし…」という方にこそ、どう知ってもらうか、考えるキッカケを持ってもらうかということに、こだわり続けているいまがある。

今日の写真は、ナーブルスの旧市街の市場の一角にある「かまどや」さん。パンも焼いているし、卵の載ったパレスチナ風ピザパンのようなものも焼いているし、鍋などの持ち込みがあれば「強火で何分」という指示通りに火加減を調節して仕上げてくれる。

ナーブルス出身の友達のアッバースと一緒に旧市街をブラついていて、アッバースの案内で、公衆浴場やせっけん工場やスパイス屋やこのかまどやなど、古くからある伝統的なお店や建物をたくさん廻った。どこも、創業者や代々の店主の古めかしい肖像写真などが飾られていて、それらを眺めているだけで楽しい。

「かまどや」のおじさんは、アッバースの紹介で日本から来たというカメラマンに「そうか」とうなずいただけで、さして関心も払わず、好きなように写真を撮らせてくれ、本人は頭上に吊り下げたテレビを夢中で見上げていた。その「無関心」ぶりが妙に心地よくて、そんなオヤジの写真を撮ったのがこの一枚。

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写真展「ボクラ・明日、パレスチナで」

日時:8月1日(土)~9日(日)11時から18時(最終日は16時まで)

場所:NMCギャラリー&スタジオ
   小平市小川西町4-14-27
   西武国分寺線・拝島線 小川駅西口下車徒歩二分

入場無料

会場では、日本で暮らすクルド難民のおかあさんがつくったオヤのネックレス、スカーフ、ピアス、ブレスレット、ストラップも販売しております

会場で、3月に発売した写真集「ボクラ」も販売。
http://benice.co.jp/blog/?p=2712

「ボクラ」のプロデューサー石塚さんのお店ビタミンTeeにより、「ボクラ」に収められた写真のすべてがTシャツにもトートバッグにもなります。
(サイズや値段など詳細はおたずね下さい)
http://www.vitamin-tee.jp/

大好評!!!ビタミンTeeより「ボクラ」の図柄の新商品、グリーティングカード登場!
http://www.vitamin-tee.com/boyaki/2015/07/29/81.html

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本日も写真展へのご来場をありがとうございました。

朝からずっと写真展の内容のことを考えていました。

ステレオタイプな「悲惨」なイメージのパレスチナしか見えにくくされている現状。ニュースにあふれるのは空爆をされて亡くなった方々の遺体、泣き叫ぶ子ども、子を喪って涙にくれる母親、ボロボロの服を着た裸足の子ども、そんな姿ばかり。もちろん、それはパレスチナの一面ではあるけれど、それがすべてではないはずなのに、決まってそんな部分しか取り上げられない。そこに人が生きていること、亡くなった方々は「ただの数」ではないこと、苦しいなかにも笑いだってあること、たくましく生き抜いているひとの姿、それもまたパレスチナの一面のはずなのに。。。

今日、ガザに取材に行ってきた某社の記者さんと話をしていたところ「東エルサレムのひとよりも西岸のひとよりも、イスラエルと直接的に接する度合いが違うせいかガザのひとたちの方が『幸せ』そうにみえた。空爆や封鎖の苦しみがあるのは重々承知だとしても」という言葉に、それもまた一面・・・と感じた。間違いなく辛くて悲惨な封鎖と空爆、でも、常々ワタシも言い続けているように「見えやすい苦しみ」だけがパレスチナの苦しみではない。笑顔だけがあるのではないという事実と同じように、悲しみと苦しみだけがあるのではないということもまた事実。

生きているひとの姿が伝わらなければ、、その大切な命が失われた、奪われたことの意味も本当の意味で伝わりきらないのではないかと思う。

今日ご紹介する写真は、映画「壊された5つのカメラ」の舞台のビリン村。映画の中で撃たれて殺されてしまうフィールの母親がフィールと姉のジャワーヒルの追悼ポスターを掲げて涙にくれる様子。2009年4月に息子を失った母は、2011年1月に今度は娘を失った。娘のジャワーヒルは、デモに参加すらしていなかった。風向きが村人たちの住宅が密集する地域になり、有毒ガスが流れ込み、ジャワーヒルはそれを吸って命を落とした。その詳細は、下記のトラックバック先「ジャワーヒルの死」という記事に書いた。

忘れもしない、あれは2010年の大晦日だった。そのまま泡を吹いて意識を失ったジャワーヒルと一緒にいたのは、ワタシの居候先アブーラハマ家の「妹」イルハームだった。病院に運ばれたジャワーヒルは一度も意識が戻らず、翌日そのまま病院で亡くなった。2011年の元旦のことだった。またワタシは2009年の元旦と同じように「あけましておめでとう」と決して口にできなくなった。仲が良い友達だったとは言わないが、何度も一緒にお茶を飲んだこともある知人が殺された正月に、どうやって「おめでとう」なんて言うことができるだろう。

その後遺族の訴えでイスラエル軍の調査がなされたが、「特殊なガスは使っておらず、『通常の』催涙ガスを『暴徒の鎮圧のために』使用、他の人間がそれを吸って亡くなっていない以上、ジャワーヒルの健康上に問題があったに過ぎない」というような内容を報告。民間人の死亡にも軍は責任はないとした。

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写真展「ボクラ・明日、パレスチナで」を開催することになりました。

日時:8月1日(土)~9日(日)11時から18時(最終日は16時まで)

場所:NMCギャラリー&スタジオ
   小平市小川西町4-14-27
   西武国分寺線・拝島線 小川駅西口下車徒歩二分

入場無料

会場では、日本で暮らすクルド難民のおかあさんがつくったオヤのネックレス、スカーフ、ピアス、ブレスレット、ストラップも販売予定です

会場で、3月に発売した写真集「ボクラ」も販売予定です。
http://benice.co.jp/blog/?p=2712

「ボクラ」のプロデューサー石塚さんのお店ビタミンTeeにより、「ボクラ」に収められた写真のすべてがTシャツにもトートバッグにもなります。
(サイズや値段など詳細はおたずね下さい)
http://www.vitamin-tee.jp/

大好評!!!ビタミンTeeより「ボクラ」の図柄の新商品、グリーティングカード登場!
http://www.vitamin-tee.com/boyaki/2015/07/29/81.html

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この写真は昨年撮ったカルミーの写真。毎年撮り続けていると、写真を並べてみて、年々成長している様子がよく分かる。カルミーはカルミーのペースで成長している。

先週、宮古に居るとき、ハイサムからメールがあった。「カルミーが毎日ミカに会いたがってる。いつミカは戻ってくるのって毎日のように聞いてくるんだ。時間があったらスカイプでカルミーと話してやって」と。

出先だったこと、集団生活だったこと、向こうがちょうどいい時間にはこちらが深夜なこと、忙しいこと…そんなつまらない理由から、カルミーとスカイプで話すことを先延ばしにしてしまっていた。

今日、イスラエル在住の友人からメールが来ていた。「ハイサムには絶対にミカには言うなって口止めされてるけど、カルミーがまた倒れた。エルサレムに入院している」と。

友人は、ハイサムに託されたお金を持って、カルミーが入院し、ハイサムの奥さんハウラが付き添う病院へ行った。ハウラは泣き続けていた。

白血病のカルミーは、普通のひとなら簡単に退治できるバイ菌や細菌への免疫力がない。日本のような国であれば、本来無菌室に入れていなければならないほど、菌に対する抵抗力がない。でも、ずっとカルミーを入院させていられる資金が、ハイサムにはない。

そして、ハイサムは検問所を越えて、エルサレムのカルミーを見舞うこともできない。自分の大切な息子なのに。たとえ危篤になっても、きっと越えられないだろう。奥さんのハウラだけが、それを許されている。「人道上の」理由から…。10歳になったカルミーのお兄ちゃんムハンマドも、見舞うことができない。

ハイサムは、ひとりになると、自分にはどうにもできないやりきれなさで、泣いてしまうと、話してくれたことがある。胸が張り裂けそうになる。

友人から「ベッドの上で、カルミーが、ミカに会いたいよと繰り返し言っていた。どうにかして来れない?」と言われた。

今すぐ行きたい。今すぐカルミーに会いたい。大丈夫だよって抱きしめたい。

でも、ワタシにもどうにもできない現実があって。もう断れない仕事がいくつも入っていたり、その仕事をこなさなきゃ航空券も買えないし、カルミーの治療費だって集められない。いまは、カルミーがいままでずっとそうやって病気と闘い、打ち克ってきたように、また回復してくれることを信じるしかない。

カルミーに会いたい。どうして、日本はパレスチナの隣じゃないんだろう。どうして、パレスチナに行くのにイスラエルの国境管理官に審査されなきゃいけないんだろう。

かつて、アフガニスタンの友アクバルが瀕死の重傷を負ったのに、ワタシには彼を助けにいくことも出来なかった。何度も何度もこういう思いを繰り返す。

でも、数年後、アクバルは引きずる足でこちらに向かって歩いてきながら「久しぶり」って、右手を差し出しながら笑ってくれた。

きっと、カルミーも「ミカ、会いたかったよ」と笑ってくれるに違いない。そう信じなきゃやってられない。どうかカルミーの病状がよくなりますように。カルミーを案ずる家族の涙が安堵の涙に変わりますように。

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ワタシがパレスチナを去った十日後、ハムディがパレスチナに里帰りした。

ママはそのことをずいぶん悔しがった。「ミカが去ってハムディが帰ってくる。ミカの出発がもう少し遅ければ、ハムディの到着がもう少し早ければ、家族みんなが揃うのにね」と。

そのころハムディとスカイプで話すと「なんで、あと十日待てないんだよ~。俺の帰りを待っててよ」と、何度もハムディに言われたが、エジプトの革命一周年が迫っていた。

「また来年も里帰りするんでしょ?来年はハムディの帰省に合わせるからさ」と会話したのが一月。

それからワタシはパレスチナを去り、エジプトにしばらく滞在した後、日本に帰った。同じ頃、ハムディはパレスチナに帰った。

それから、三ヶ月が経った。「あれ?ハムディ、いつになったらドイツに戻るんだろう」、ハムディはビリンで写真を撮り続けていた。

「ねえ、ハムディ、いつまでビリンに居るの?ドイツにはいつ帰るの?」
「実はさ、もうドイツには戻らないことに決めたんだ。俺、このままビリンに居るよ」
「なにがあったの?でも、正直にいえば嬉しいかな。ママもパパもハムディがそばに居れば、それだけで幸せだろうし、パパやママが幸せならワタシも嬉しいし。それに、ビリンに行けば、いつでもまたハムディがいるのは、やっぱり嬉しいな」
「そう、まさにそのことを考えて決めたんだ。ビリンに帰省してずっと考え続けた。パパとママと家族のことを考え続けた。だから、そう決めたんだ」

いますぐ、ビリンに戻りたいと思った。

どれだけ友達が増えようと、どれだけ大切なひとが増えようと、やっぱりハムディは特別な存在。またハムディと肩を並べて、いまのビリンを撮りたい。

写真は去年、ハムディが旅立つ前に撮った写真

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日付が変わった今日、いよいよバンコク経由でカイロに向かう。

友達が、子どもの頃、元気のないときには必ず眺めていたという、ちょっと変わった小さな万華鏡をカルミーにくれた。目の前のひとの顔までもが万華鏡に映し出される。「カルミーに、これでパパやママを映し出してのぞいてみてって伝えて」と、カンパとともに、大切な宝物を渡してくれた。

温かくて、泣きそうになった。

たくさんのひとの思いを届けるため、自分は頑張って行かなきゃならないんだなあと思う。日本のみんなの思い、エジプトやパレスチナのみんなの思い。

正直に言えば、投げ出したいときも、たくさんある。いや、投げ出したいときだらけ。弱音だって吐きたくなる。挫けそうにもなる。

でも、誰に頼まれたわけでもない、自分が決めたこと。

だから、また重い荷物を抱えて、家を出る。自分の布団と、大切な家族に恋い焦がれながら。

去年は、ハムディの出発を見送った。ハムディが、大切な故郷を後にしてまで手に入れたかったものは…。

ドイツのビザが手に入った日、ハムディは大喜びだった。その隣で、ママがずっと泣いていた。

ハムディの出発の日、雨の降る寒い明け方、雨にうたれながら、ハムディがいなくなったあとも、ママは道端でハムディの名前を呼びながら泣き続けた。辛いときだった。

ハムディは、ドイツに行っても、一日たりとも故郷を、家族を忘れた日はない。毎日毎日、フェイスブック上で故郷や家族への思慕をつづり続けている。

いつか、ハムディが自由に故郷に帰れる日が来るといい。そのためにも、占領を終わらせたい。

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今年一年間、労大出版センター「まなぶ」の表紙グラビアを担当させていただきました。尊敬する沖縄の彫刻家、金城実さんの彫刻作品を撮影した写真が一年間の表紙を飾ってきました。

その今年最後の12月号には、パレスチナを去った青年ハムディの姿を追うことで見えた占領の実態をルポとして書きあげました。

そろそろ発行されるころです。宜しければお手にとってご覧ください。

http://www3.plala.or.jp/rdsyupan/manabu/manabu.html

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