世界の笑顔に出会いたい

写真家・高橋美香のブログ。 公園にいたノラ猫のシロと暮らす。 カメラを片手に世界を歩き、人びとの「いとなみ」を撮影。 著作に『パレスチナ・そこにある日常』『それでもパレスチナに木を植える』(未來社)『パレスチナのちいさないとなみ』(共著)『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版) 写真集に『Bokra 明日、パレスチナで』(ビーナイス)

カテゴリ: 宮古ボランティア日記

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苦しみも悲しみも喜びも、あなたの姿をとおして、この7年間みつめてきた。

3年ほど前だったかな。あなたはワタシが訪ねても、以前のように大喜びしなかったし、ほとんどすべての自分の予定を投げ出してでもワタシと一緒にいようとしなかったし、別れの際に泣かれなくなったし、とうとう見送りにも来なくなった。

でも、愚かなワタシは、それをポジティブに受け取っていたんだ。あなたが「もとあった日常」に戻ろうとしている、戻った証なのだろうと。少し寂しかったけれど、これでいいんだと思った。所詮、ワタシはあなたのそばにずっといることなどできないのだから。

でも、いまならわかる。その頃が、ひとりぼっちで気分が沈み、様々なことに無関心になる、そんな病のスタートだったのだと。

約2年ぶりに再会したあなたは、病と老いと貧困と孤独のなかで、置き去りにされていた。

不自由な体では部屋を片付けることも、ゴミを捨てることもままならない。かろうじて週に2度ヘルパーさんが来てくれる範囲では、台所だけはなんとか最低限の整頓が保たれ、手で洗える範囲の下着などは洗ってもらっているようだが、普段過ごす居間には残飯と生ごみの山とそれにたかる虫が、万年床の布団は湿り、テーブルの上はゴミの山だった。ヘルパーさんもあなたに「ここは触らないで」と言われているのかもしれない。部屋もあなたからも以前とはまるで違う異臭がただよっていた。

あなたを普段から気にかけている方々に話を聞いて回った。「もうひとりで暮らせる状態ではない」「時間や日にちの区別がつかなくなっている」「要介護度をあげてもらってもっと適切なケアがされなければ暮らしていけない」と口々にみなさんはおっしゃった。

しかし、唯一の肉親をあの津波で喪ったあなたは、あなた自身が「大丈夫」とかたくなに言い続ける限り、誰にもそれ以上のことができない。あなたのそばで、あなたのことを一番気にかけてくれてきたひとが覚悟を決めて「後見人になる」と申し出たら、あなたはかたくなにそれを拒んだと聞いた。

もう、自分で買い物に行くことも、台所に立つことも難しいよね。以前は料理が得意だった。訪ねるたびにいろんな料理を作ってくれた。そんな写真がたくさんある。花のお世話が大好きだった。キレイなものが好きだった。でも、いまのあなたの家を彩り、飾るものはなにもない。台所の冷蔵庫に行くことすらも困難なのか、常温で出しっぱなしの豆腐がテーブルに置かれていた。「冷蔵庫に入れようか?」と聞くとあなたは「いいから」と硬い表情に変わった。

ゴミをみていると、食生活がいやでもみえてくる。すぐに食べられるもの、豆腐だけ、パンだけ、ビスケットだけ、バナナだけそんな日々が続くのだろう。ワタシが持って行った小さなパンを半分だけ食べ、大切そうにテーブルに置いた。翌日また半分食べるのだろう。

翌日、いやがるあなたの家を少しだけ掃除しようとした。硬い表情になったので、もうそれ以上は手を付けられず、残飯と生ごみだけ袋にまとめた。でも、ゴミの日に不自由な体でそれをどうやって出しに行くというのだ?元気なひとなら5分の作業も、あなたには30分もかかる作業になるだろう。

お金さえあれば、肉親や頼れるひとがいれば、病がなければ、老いていなければ…もう少し違っているのかもしれない。でも、あなたにはすべてが重くのしかかる。

できる限り一緒に過ごそうとした。でもあなたは「疲れた」とつぶやいて湿った布団にもぐりこんだ。数日前に転んでしまったそうで、痛みが強く動くのも辛そうだ。大きなテレビの音だけが響く部屋で、あなたは繭にくるまれた蚕のように、布団のなかで丸くなった。その背中に、涙があふれそうになった。

ワタシが出会ったあとの、あなたの背中はいつも寂しそうだった。どれだけ笑っていても、ひとりの部屋に帰る顔は曇った。何度も「泊まっていけば?」と言われ、帰れなくなって狭い部屋に無理やりふたりで寝た。明け方ワタシがはねのけた布団をなおしてくれていたことに気づいたとき、きっと喪ったお子さんにもそうしていたのだろうと思うと、涙があふれた。

津波注意報が出て、深夜にあなたを迎えに行ったときもそうだった。注意報が解除されたあとも、不安げなあなたの手を離せなくて、手を握って一緒に眠った。

ワタシからは絶対に聞けなかったあなたのお子さんのこと。昔のアルバムを引っ張り出して、「これが小学校のころ、これが高校生のころ」と写真を見せてくれた。ワタシはその白黒の写真を、カメラに収めた。どうしてなのかはわからないけれど。

街はさらに「復興」が進んでいた。どんどん進められる大型工事。分離壁のような高さの壁が防潮堤として海沿いに建てられている。復興道路も工事が進んでいた。東日本大震災の被災地の話も、すっかり巷の話題にのぼらなくなった。

でも、その陰には、あなたのような「復興」から完全に取り残され、置き去りにされ、「ひととしての尊厳を保てる暮らし」からは遠く隔てられたところに置かれているひとがいる。きっと、そういう方は少なくないのだろうと思う。

パレスチナの難民キャンプを思い出す。自分の力で切り開き、立ち上がっていけるひともいる。でも、どうすることもできないひともいる。声をあげることもできずに、いまの状態をどう変えていけばいいのかきっかけもつかめず、その方法がわからず、途方に暮れているひとがいる。

「じゃあ、また来るね」と丸くなった背中に声をかけると、あなたは「ありがとう」と、ワタシの手を握った。暖かくて、やわらかいあなたの手。あなたはそれ以上の言葉もなく、2度力をこめた。その手を離さなければならないことが、罪悪のように感じた。

あなたが心から笑える日が、穏やかで安らかな日々を得ることが、ワタシにとっては本当の「復興」だと思っていた7年間だった。それが、いかに甘い見通しだったかを思い知り、打ちのめされた。

あなたのことを気にかけている、あなたの街の方々に託すよりほかにない。情けないけれど、ワタシにはどうすることもできない。そのやるせなさとともに、あなたを、この街を、みつめつづけていく。ワタシの人生が続く限り。

写真は、あの日すべてを変えてしまったこの街の海。この街にずっと恵みをもたらしてくれる海でもある。

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また半年ぶりに宮古に行ってきた。震災の年からずっとワタシたちボランティアを受け入れ、滞在を許してくださってきた日本基督教団宮古教会の牧師先生と教会員の皆さん。震災から五年のこの3月11日に、津波の来ない場所に教会と牧師館と認定こども園とを移転して、その献堂式がおこなわれた。

この11日、朝から宮古小学校へ避難訓練に参加した。年々訓練の参加者が減っていることを受け、今年は四年生の生徒たちが訓練に際してアルファ米で炊いたおにぎりやお茶の炊き出しをしてくれた。もう一度避難訓練の大切さを見直そうという地域への呼びかけ。

朝の6時、あの日、あのときと同じサイレンが鳴った。そのサイレン音に地元の知人は「あの日のことを思い出して苦しくなる」と毎年のように言っている。

仮設住宅で独りで暮らす90歳になる「ばあちゃん」を半年ぶりに訪ねた。ばあちゃんは元気そうに見えたが「この半年の間に2度救急車を呼んでしまった」と語った。身寄りもなく、ひとりで暮らすばあちゃん。復興住宅にせっかく当選したものの、復興住宅へ入居すれば家賃がかかるようになるから払っていけるのか分からず、決断できず入居を見送ったことを話した。ばあちゃんの心の不安を取り除き、小さなことでも相談にのり、親身になって一緒に問題を一つ一つ解決してくれるような「仕組み」が見当たらない。自分から声を上げることができないひとは、どんどん取り残されていく。そのことを強く感じる。「困ったことがあったら相談にのってもらえるか」と、ばあちゃん。「当たり前じゃん」ともう一度、住所と電話番号を書いて渡す。もっと近くにいられればいいのにね。

一方、ようやく希望通りの、もともと住んでいた町にできた復興住宅への入居を終えたNさん夫妻。かかさま(といつもワタシは呼んでいる)は家を訪ねたワタシの手を引き、一緒にこの復興住宅へと移ってきた仲良しのYさん、Oさんの玄関の扉をたたき「珍しいひとが来たよ、ミカちゃんが来たよー」と声をかけてまわる。Oさんの家で4人でお茶を飲む。YさんもOさんも一人暮らし。「でも3人で毎日顔を合わせて、どんな小さなことでも吐き出しあって、助け合っているから大丈夫」と3人とも笑っている。そのお姿に、ワタシはホッとする。そう、誰か身近に支えてくれる人がいれば、大丈夫。

鍬ケ崎や田老に行ってみる。どんどん工事が進み、どこにいるのか分からなくなりそうだ。地元の方々は「こんな防潮堤よりも、まっすぐな避難道路、遠くに避難できないひとのための高くて頑丈な避難場所をつくってほしいのに。誰のための工事なんだか」と異口同音に話す。誰のための「復興」なんだか。

「復興」を声高に叫ばれれば叫ばれるほど、声も上げられず、そこから取り残されて、孤独と貧困のなかでもがいている方々の存在を蔑ろにされているようで、やりきれなくなる。ワタシにできることはなにもないに等しい。でも、生きている限り、出会った大切なひとたちがそこで暮らし続ける限り、足を運び続けようという決心だけはしている。重い重い五年の歳月。気の遠くなるような「本当の復興」への道のり。

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三月以来、半年ぶりに宮古を訪ねてきた。

震災の年から、ボランティアの活動拠点として宿泊を含めた受け入れをしてくださった宮古教会。津波の襲来に耐えた教会も、未来のことを考えて海から離れた場所への移転が決まった。いまの教会は取り壊しが決まっている。その前に、どうしても、あの日々を過ごした教会に「ありがとうございました」と言いたかった。お別れを告げたかった。

四年たったいまでは、宮古では「表立って」ボランティアは必要とされていない。聞く話によると、学生のボランティアを連れて行こうと窓口にたずねると、「こういうニーズがある」ということに沿って活動をおこなうというよりは、「学生さんたちは何ができますか?歌を歌うとか?料理ができるとか?」と聞き返されると聞いた。

仮設住宅などでの訪問イベントも、一部を除き、すっかり減っているそうだ。仮設住宅の入居者自体が減っているのだから無理もないのかもしれない。ある仮設住宅を訪ねると「ああ、お姉さん、よく焼きそば焼きに来てくれてたよね。いまでは、誰も来なくなっちゃったよ」と。「なんだかさみしくなったよね」と力なく笑う。

ある仮設住宅では、復興住宅への入居が決まりどんどん転出者が増えている一方で、「どこに行くか分からない。どこへ行けばいいのかも分からない。だから入居も申し込んでいない。かといって、自力で家を用意できるあてもない。追い出されるまでここにいようと思う」と仲良しの身寄りのないばあちゃんが笑う。笑っているけれど、いや、本人は笑うしかないのだろうけれど、深刻な問題だ。今度行ったときには、じっくり話してみて、ご本人が希望され、なにか解決の道があるのなら、担当者にお願いしなければと思う。話しているあいだじゅう、ワタシの手をギュッと握るばあちゃん。そのぬくもりと、握られた手にこめられた力を感じると、笑いながらも不安でいっぱいなんだという思いが伝わってきて、切なくなる。いつも、ばあちゃんに手を振って「また来るね」といわなければならないときは、身を切られるような思いになる。

その一方で、少しずつ「日常」を取り戻せたんだな、と感じるばあちゃんもいる。以前は訪ねると大喜びで「家にあがっていけ、泊まっていけ」と何かにつけて世話を焼いてくれていたばあちゃんも、今回はものすごく淡々としたもので「いいことも別にないけど、特別悪いこともない」と。以前ならば教会に、ボランティアセンターに、何がある訳でなくても顔を出していたばあちゃん。いまはそういうこともなくなり、お別れの際も「またね」と淡々としたもの。かえって、こちらが寂しくなるくらい。でも、それでいいのだと思う。感情の揺れ幅が大きかったばあちゃんのこの四年間の方が、ばあちゃんにとっては「異常事態」だったのだ。自分の本来の世界のなかで、自分の本来の「日常」を取り戻しつつあるばあちゃんを、これからも、そっと見守ろうと思う。

鍬ケ崎では「毎日、道が変わっていて、地元の人間でも一瞬分からなくなる」というほど、街全体の区画整理と計画に基づいた再建が進められている。それにともなう問題もあちこちで耳にはするけれど、とにもかくにも工事が進められている。田老では、高台での復興住宅などの建設が進められていた。全体的には、まずは道路から、という印象を受けた。南北を縦貫する復興道路もかなり大規模な工事があちこちで進められている。

変わりゆくこと、変われないまま取り残されているひと、四年たって、様々なものが見えてきた。「復興」という華々しい面だけに目を奪われず、その陰で苦しみ続けているたくさんのひとが、声も上げられずに日々を過ごしていらっしゃることを忘れたくない。

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もう何度目なのか数えられなくなっていたら、たまたま11回目の記録をみつけた。そこからならたどれる。今回は15回目のようだ。

車で行ったので、一関ICでおりて、そのまま気仙沼へ出て、沿岸沿いを北上した。そのルートを走るのはたぶん一年ぶり。去年の2月以来だ。陸前高田では、山の土砂を大きな機械でベルトコンベヤーのように運んでいる様子に驚いた。いつの間にそんな大がかりなものが出来ていたんだ。

大船渡、釜石、大槌、山田と北上していると、少しずつ工事が進んでいる様子が見えるところもある。ようやく目に見えるカタチで少しずつ進んできているようだ。

宮古でも、ようやく盛り土による嵩上げが始まりかけているところがあった。ようやく完成した最初の復興住宅への入居も始まった。しかし、復興住宅の家賃を払う余裕がなかったり、大きなものの処分費用が捻出できなかったり、また新たな問題も聞こえてくる。

元の場所のコミュニティを維持するのか、新しく仮設住宅で親しくなったそのコミュニティを維持するのか、それが合致していれば言うことなしだが、なかなかそうもいかないらしい。

震災から三年、子どもの成長期の三年も大きな三年だが、高齢者にとっての三年も大きな三年。被災前は元気だったのに、仮設住宅で動く機会が減ってすっかり弱られた方もたくさんいらっしゃる。

ただ、今回ひとつだけとびきり嬉しいこともあって、被災時に両親と離れて過ごさなければならなくなって、その後学校に通えなくなった少年と、震災の年の夏よく一緒に遊んだり、ボランティアをしたりしていた。その後、少年は少しずつ学校に通えるようになり、再会するたびに成長を遂げていて、冬に会ったときは受験生だと言っていた。そして今回再会すると「志望校に合格して、いまは部活やってます」と日に焼けた顔でニッコリと笑う。筋肉もついて少したくましくなっていて。本当に嬉しかった。

辛いことを忘れたわけでもないし、まだまだ辛い目に遭っている方々のことをきちんとみつめていなきゃと思うけれど、でも被災地にも嬉しいことや幸せなことがないわけじゃなくて、それをすべてひっくるめて、三年の月日なんだなと思う。

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写真展「カフェアラビアン」でバタバタな日々に、宮古から荷物が届いた。

差出人の名前をみてみると、いつもお訪ねしている、仮設住宅にひとりで暮らすおばあちゃん。

同じ仮設住宅の方々とあまりうまくいっていないので、普段、孤立しがち。

「いらねえ気を使って無理に付き合うよりいーんだ」とばあちゃんは強がる。

でも、行くたびに、手を握り、抱きしめ、あがっていけと言い、帰り際になると寂しそうな顔に変わり、それでも気丈に「また来てくれな。ねえやん(と呼ばれている)が訪ねてきてくれるのがどれだけ嬉しいか…」と、ありったけの栄養ドリンクや魚を持たせてくれる。

お礼の電話をすると「ああ、よかった。ねえやん日本にいたんだな。この前は雪かきありがとうな。おまけに軽めのスコップまであとで持って来てくれて。あれで、ようやく雪かきもできるようになったこった」と。

箱を開けると、大量のマス(一尾分まるまる!)、マスのあら、ホタテ、タコ、ワカメが所狭しと入っている。そして達筆で書かれた「本日のお品」と題された説明書き。あたたかくて、これを書きながらワタシのことを思ってくれていたばあちゃんの心が伝わってきて、なんだか切なくもあって。

「また五月に行くからね。待っててね」と言うと「ああ、そうか!楽しみだなあ。早く姉やんに会いてえもんだ」とばあちゃん。

結局さあ、、宮古でもパレスチナでもアフガニスタンでも、みんなにあたたかい気持ちを貰ってばかりだなあと思う。どうやって恩返しをすればいいのか分からないくらい、みんなに貰ってばかり。

何が出来るわけでなくても、訪ねつづける、いまのワタシにはそんなことしか出来ないけど。

さっそく、ホタテとタコは刺身でいただいて、焼き用と書かれたものはみりんと醤油で煮る。そしてマスを塩焼きにして、マスのあらは三平汁に。近年まれにみる豪華な食卓の日々。

ばあちゃん、本当にありがとう。

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