
今日、ワタシが勝手に師と慕っている写真家の長倉洋海さんの東京都写真美術館での写真展「長倉洋海の眼ー地を這い、未来へ駆ける」がスタートした。昨夜、アフガニスタン山の学校支援の会のほかの仲間とともに、写真展のオープニングレセプションにお招きいただき、出席した。
招待者だけのゆったりした空間で、写真展を拝見した。ローデシア、エルサルバドル、ヘスース、カルロス、マスード、アフガニスタン、南アフリカ、ソロモン、コソボ、ザビット一家、アマゾン、山の学校…そして近年の作品、懐かしいものから、新しいものまで、師の写真家人生の軌跡がみえるようだ。
年表をみつめながら、ふとワタシが師の作品に初めて出会ったこと、師と初めて対面したことを思い出す。
高校を卒業して東京の某所にある専門学校に入学したワタシは、文章の綴り方、取材の仕方などを学ぶ学校にいた。そのとき、写真の授業の先生が写真家の樋口健二先生だった。樋口先生から与えられた課題図書のひとつに長倉さんの『激動の世界を駆ける』(講談社文庫)があった。当時、ワタシは書店でアルバイトをしていたので、バイト先の講談社文庫の棚にその本があることをみつけた。そして、夢中になって貪り読み、『フォトジャーナリストの眼』(岩波新書)、『マスードの戦い』(河出文庫)を買い、初めて写真集『マスードー愛しの大地アフガン』(JICC出版局)を買った。
なんとなく漠然と「長倉さんみたいになりたい」と思った。いま思えば、それがどんなに険しい道かも知らず、無邪気な想念を抱いたものだと、若かりし頃の自分に苦笑する。
専門学校時代、とにかく長倉さんの世界観に夢中だった。でも、写真展でサインをもらうときも、いつも緊張して自分の名前を入れてもらうために名前を告げるのが精一杯だった。ほかのことなんて、とても言えなかった。自分の前後に並んでいるひとが気軽にいろいろと「~以来のファンで」とか「いつも観ています」とか、そんなことを話しかけているのが心底、羨ましかった。ワタシには、できなかった。
その専門学校で、「最低十年は、食えようが食えまいが追いつづけられるようなテーマをもて。それができないヤツは最初からこの道はあきらめろ」と言われた。多分、『ふるさとは貧民窟(スラム)なりき』(ちくま文庫)の著者でもあるルポライターの小板橋二郎先生だったんじゃないかと思う。そのとき、「長倉さんのようになりたい」と憧れる自分と、子どもの頃にテレビで観たパレスチナのインティファーダと、「最低十年は追えるテーマ」というものがひとつに重なった。「そうだ、パレスチナをカメラで追うんだ」と。
その後、中東政治やアラビア語を学ぶために大学に入り直した。大学時代はもっともっと長倉さんへの憧れがさらに強まり、相変わらず続けていた書店でのアルバイトで新刊本が出るたびに読みふけり、東京で写真展が開催されるたびに足を運んだ。
専門学校時代の先生、書評家の井家上隆幸先生がゴールデン街に飲みに行く途中に、よくアルバイト先に顔を出してくださっていた。本当によくかわいがってもらって、卒業後もいろいろとご指導をいただいた。そんなある日「今度授業で写真家の長倉洋海を呼ぶことになったんだけど、君は長倉に憧れていたよね。授業に顔を出すといい」と日時を教えてもらい、急遽、同級生(もちろんみんなとっくに卒業している)と授業に潜り込んだ。授業のあと、高田馬場のルノアールで長倉さんを囲んだことを忘れもしない。そのとき、初めてきちんとまともに会話ができたような覚えがある。「長倉さんに憧れています。○○専門学校を卒業して、大学で中東政治とアラビア語を学んでいます」くらいのことは言えたかもしれない。
そして大きな転機は、たまたま広島の実家に帰っていたとき、島根県松江市で長倉さんの写真展の会期と重なり、父に車で松江まで連れて行ってもらってギャラリートークを聞きに行ったこと。長倉さんは「あれ?なんで松江にいるの?」と驚き、何人かの方々と「出雲そばを食べに行くから一緒に行こう」と誘ってくださった。味なんてなにも覚えていない。緊張して、そばの味どころじゃなかった覚えがある。
それ以来、写真展に顔を出すと、いろいろと話しかけてもらえるようになった。帰り道は、いつもふわふわと幸せな気持ちでサインしてもらった本を大切に胸に抱えて帰った。大学時代は夢中で旅をして、写真を撮った。大学時代に親しかった写真部の仲間は、きっとあのころのワタシの口癖を覚えていると思う。「長倉さんみたいになりたい」という口癖を。
本当に無邪気なものだった。長倉さんの世界観の「かっこよさ」の裏側に、どれほどの努力の積み重ねがあるのかも知らずに、よくそんな軽々しい「憧れ」が抱けたものだと、いまでは思う。でも、それがスタートになければ、いまのワタシが決してなかったこともまた事実。
でも「長倉さんみたいになる」なんて、そんなに生易しいことじゃなかったと、段々と現実に気付かされる。パレスチナに行ってみた。写真も撮ってみた。文章も書いてみた。でも、それが世に出るなんて、そんな簡単なことではなかった。当たり前だ。
一度は、会社勤めもしてみた。ちょうどそれが決まったのと同じころ、「アフガニスタン山の学校支援の会」の活動がスタートした。松明堂ギャラリーのチャリティ写真展でプリント一枚買う余裕もなく、なんとか手持ちのお金で買えたカレンダーにサインをしてもらった。その日アンケートに「運営委員として手伝える」と書いたら、すぐに長倉さんから電話をいただいた。初めてのことだった。その電話を受けたのは西武線の踏切のそばだったことまで覚えている。第一回目の運営委員会に顔を出すことを決めた。
いやはや、あれから13年が経った。この13年のあいだに、長倉さんのそばで、その背中をみつめながら、いろんなことを教えてもらった。直接写真やなにかについて指導を受けるということはほとんどないけれど、長倉さんの生き方を、その背中をみつめていることが学びである。うまく言葉にはできないが、被写体への向き合い方、被写体である人びととの関わり方、生き方について…長倉さんと過ごす1分1秒が学びだ。
その学びを、大した成果として活かしきることができていないことは、ワタシの能力不足なので仕方がない。所詮「長倉さんのようにはなれない」ということを、この13年間でいちばん学んだような気がする。なにもかもが桁違いだ。ワタシには、どんなに逆立ちしても、ああはなれない。
でも、「それでいーんだ」ということも学んだ。師の背中には一生追いつけないけれど、遠くにその背中をみつめながら、自分は自分の道を生きるしかない。
昨日、若かりし頃に夢中になって眺めた写真、エルサルバドルやマスードの写真やザビット一家の写真…をみつめながら、本当に長倉さんに出会えたことを幸せだと思った。長倉さんの写真に、その生き方に出会わなければ、いまの自分は決してなかった。パレスチナのみんなに出会うことも、山の学校のみんなに出会うことも、金城実さんに出会うことも、多分なかった。いまよりずっとフラットで、ずっと起伏の少ない平凡な、でも多分「気楽な」、人生を歩んでいたことだろう。
長倉洋海さんの写真展は5月14日まで。毎週末の土日とGWにご本人によるトークがあります。
【ギャラリートーク】
以下の内容で 13:00より約1時間 展示会場にて。
3月25日(土)「私の原点 エル・サルバドル」
3月26日(日)「マスードとの日々」
4月1日(土)「写真という地図」
4月8日(土)「ファインダーの向こうの子どもたち」
4月9日(日)「人間を支えるものを求めて―コソボ、南アフリカ、アマゾン」
4月15日(土)「マスードという個性」
4月16日(日)「エル・サルバドル―戦場から人間へ」
4月22日(土)「どう写真を撮ってきたか」
4月23日(日)「私が出会った子どもたち」
4月29日(土)「エル・サルバドルで見えてきたこと―人間への眼差し」
4月30日(日)「アフガニスタンと私」
5月3日(水)「私の旅―いくつもの国境を越えて」
5月4日(木)「こんなふうに写真を撮ってきた―私の視点」
5月5日(金)「マスードの笑顔」
5月6日(土)「家族、人間、自然―コソボ&南アフリカ&アマゾンから」
5月7日(日)「原点エルサルバドルで学んだこと」
5月13日(土)「マスードと私」
5月14日(日)「世界を巡って見えてきた『私の写真』」
http://www.h-nagakura.net/contents/ex_170325.html
また、4月2日(日)11時より東京都写真美術館一階ホールにて「アフガニスタン山の学校支援の会」主催、「活動写真 アフガニスタン山の学校の子どもたち」と題した映像上映イベント(無料)があります。
【お願い】こちらの4月2日のイベントに関してのお問い合わせは、必ずアフガニスタン山の学校支援の会事務局(メールinfo_yamanogakko@yahoo.co.jpまたは事務局へのFAX)にお願いいたします。当イベントに関して東京都写真美術館にはお問い合わせされませんようお願い申し上げます。
写真展にもイベントにも、是非とも足をお運びください。
(写真は、アフガニスタン山の学校の子どもたちに授業をする師)





